連載第一回  (資料:全文掲載シリーズ)連載開始2003-12-15    戻る   つぎへ

                  

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 日大体制の下での血みどろの三年間

  日大闘争の総括

              −経済学部自治権奪還闘争を中心に−
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目次

一、日大の一般的状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

二、芝田進午闘争(1966年10月・三崎祭闘争)

   -弾圧下の三崎祭・自治権奪還闘争の開始-

(1)芝田進午闘争の事実経過

(2)芝田進午闘争の総括

 

一、日大の一般的状況

 現在全国的に展開している大学自治の破棄は,大学当局の管理運営権独占、教授会をも巻き込んだ形での学生自治活動の排除と弾圧、そして官憲導入による大学自治の国家権力への売り渡し、としてあり、他方,それに断固として対決している学生の闘いもまた全国的に巻き起こっている。
 そうしたなかで、この間日本大学経済学部を中心にして起った学生の全学的闘争は学生の自治奪還闘争の本質的展開である。
 日本大学では,学生の集会,討論,発表の自由が、完全に大学当局に奪われ,学生自治の自由な広報が犯される中で,学生自治活動は徹底した個別オルグ活動によるしかない。
 一方において大学当局は、自ら、大学新聞をはじめとする広報機関を通じて、歪曲された報道をなし,それに対して学生自らが真実を伝えるビラでも配布しようものなら、直ちに激しい個人的恫喝を加えられ,集会や討論を実行すれば直ちに不法呼ばわりされて処分を受ける。
 こうした状況は経,法学部で露骨である。
 講義時間中の自治活動指導学生への公然たる誹謗中傷,私服警官を入れての動向調査,スパイ学生としての学生課特務要員、電話盗聴、等、そして他方、一部の体育会,自民党青年部,総調和会等々の右翼学生の起用がある。
 これらの学生に対する,大学当局の綿密な戦術指導は、当局が直接手を下せない部分への浸透を目指し,右翼学生の学生自治活動に対する挑発と暴行を命じて,それにより,顕在化する運動をつみ取って一挙に自治活動を行うところの学生を粉砕する、という策謀としてある。
 それは1967・420の経済学部新入生移行生歓迎会破壊,処分等々の中で明白である。
 35億円使途不明金の内,けして少なくない部分は,右翼学生への手当てをはじめとした学生弾圧政策としてあるのだ。
 このような日大当局が意図するものは、大学内部対策のみならず,社会的にも極めて重大な意図をもっている。かつて明治大学学費値上粉砕闘争を破壊した、右翼学生ゲバルトへの直接参加をはじめ,日大本部は,学生運動全般さらに主要には、70年安保闘争への破壊部隊を全都的に指導しつつある。
 その動員の内訳は、全にちだい応援団、体育会学生が1,000名とも5,000名とも言われ、(常時300〜500)、出身OBおよび全都大学のそれを含めると,現在日大本部が組織しうる右翼ゲバルト部隊は、全く把握しかねる膨大な人数となる。
 展開すれば全くきりのない,かような日大の恐怖状態の中で,教授会は,大学の自治を自ら守り,学生の自治活動を守るどころか,逆に大学当局の学生弾圧,自治破壊に積極的に手を貸してさえしている。
 教授会は古田会頭を中心とする,強大な権力の前に全く腐敗し,本部権力路線にねじ曲げられた学部長不正選挙を許し,そしてゼミ,研究会等を使って自ら学生を脅迫し,思想調査をするなどこれまたその堕落と犯罪性は、重大である。
 また,大学当局の中では、主流派と反主流派の利権争いのドス黒い派閥抗争が展開されており,その下に複雑きわまる派閥が錯綜し,教授・職員はそれらに巧みに動かされている。
 だが学生弾圧に対しては一致し,学生からのあらゆる批判をねじ伏せる。
 まさに教授の自主性の放棄,を中心とした教授会の腐敗と権力への寄生性は、残念ながら実に日大が大学の自治それ自体を喪失し,大学としての基本的条件全く失っている状況を示す特筆すべき問題である。
 したがって現在,経済学部学生を中心に全学的に巻き起こった学生の自治権奪還闘争は,こうした日大の状況に全面的に対決する物であり,大学の自治の一端を担うべき学生の正当な闘争であって,教授会それ自体が何をなすべきかを知らない現状では、それは日大における大学の自治を取り戻す唯一の闘いである。
 年間総予算250億円を持ちながら,そのうち真に学生に還元されるのは,ごくわずかにしか過ぎず,日大経営は徹底した利潤追求に専念しており,
     「35億円使途不明金」は日大の恥ずべき本質をさらけ出した。
 いま、この事件について,当局を糾弾する声が学生によって一挙に噴出しているが,その追及の火の手は,単に35億円の追及だけにとどまることなく,その背後にどす黒く存在している,当局の学生弾圧全体に対する学生の断固たる対決,そして大学の自治を学生自らの手に奪還する闘いである。
 10万学生の偉大なる日大闘争は突発的に起ったものではない、この闘争が全面的に展開されるまでには,日大10万学生屈辱の歴史が存在し、当局弾圧下の下での血みどろの戦いの歴史が存在するのである。
 これの総括なくしては現在の日大闘争は勝利し得ないし,日大闘争の本質も理解できないであろう。
 長い苦しい血みどろの戦いが存在したからこそ現在の日大斗争が存在するのである。
 日大10万学生の屈辱の歴史を考えるなら日大闘争は、必ず勝利しなければならない。
 それが日大生に残された唯一の大学当局に対する権利なのである。 

 

 

連載第二回

二、芝田進午闘争(1966年10月・三崎祭闘争)

   -弾圧下の三崎祭・自治権奪還闘争の開始-

1966年10月、経済学部の学生は1年間の学問・研究活動の集大成の場である,三崎際(経済学部の大学祭)に全力を注いで活動を展開していた。
(1)芝田進午闘争の事実経過
10月14日三崎祭実行委員会が招請した三崎祭講演者、芝田進午(法政大助教授)を学部当局は、
   「日大に批判的なヤツだ、日大の教育方針に合わない。」
         -吉田寛指導委員長(現在経済学部長)談-
という理由のもとに芝田進午氏講演不許可を学生に言い渡す。
10月16日以降,学生の自由な,主体的表現の場である三崎祭の活動に,当局が理由なき理由をもって講演を拒否したことに対し、29日まで連日抗議集会がもたれたのである。
10月17日、当局の手により情宣手段を剥奪されながらも、個人的情宣活動により、700名の学生が、拡大展示部会に結集し、学生の自治活動に対する不当介入に怒りをぶっつけるのであった。
 集会の席上で、学生は講演会拒否を撤回させる為に当局へ代表団を派遣したが、指導委員長以下学部当局は、代表団の正当な要求に論駁することができず、
    「君たちがそんなに芝田進午の話を聞きたいのなら、法政大学に行きたまえ」
                        -指導委員長談-
と学生を馬鹿にした発言をし、自己の犯罪的立場を固持するのであった。
 交渉決裂以後学生は、井出、木村両副指導委員長、橋本学生課長を呼び、大衆団交を行った。
その中で彼らは学生の追及に論駁できなくなると、
   「芝田進午を拒否したことは吉田寛指導委員長の信念であるから。
    学生がいくら騒いでもだめだ。三崎祭以後なら呼んでもよい。」
と、あたかも当局が三崎祭を行わんかのような口調で、学生の要求を拒否したのである。
 当局の犯罪性が大衆的に暴露されたが、結局大衆団交は決裂し、以後学生側は有効な闘争方針を提起し得ず、運動展開がなしえないまま、三崎祭に突入し、芝田進午は三崎祭に呼べず、その以後に講演会を開催するにとどまった。

(2)芝田進午闘争の総括・闘う執行部の成立過程

 芝田進午講演に対する学部当局の弾圧は、学生の自治を侵害するものであり、学問、思想の自由、言論の自由の完全否定である。
 また、日大教育政策批判の理論を持つ芝田氏の講演は、現代の社会、大学から逃避するのではなく、真実を見つめ、それにいかに対決し生きていくのかという、三崎祭スローガン
       「君は大事なことを忘れている」
に答えたものである。
 したがって学生は、講演会とスローガンが密接に関連するという意義づけのもとに闘争を展開したのである。

 芝進闘争は最終的に敗北せざるを得なかった。
 敗北の一要素を作り出したのは闘争の指導部であった。
 三崎祭実行委員会が闘争の過程で当局と数度のボス交を行い、当局の強い拒否と脅迫にあい、闘う方針を提起できえず、集会においても
      「芝進闘争をこれ以上やれば、三崎祭ができなくなる」
という理由によって、学生を押さえにかかることもあった。
 結局この日和見的実行委員会を突き上げる形で運動を展開した研究会の先進的学生が、後半には闘争を実質的に指導したのであるが、この意識的部分においても実行委員会を批判するに止まり、それにかわる正しい闘争方針を提起できなかった。
 すなわち、闘争を実行委員会にまかせ、方針が間違えれば実行委員会を突き上げるという形で運動が展開され、自ら方針を出して闘いえなかったところに主要な問題点がある。
 方針不在で実行委員会を批判しても、闘いを勝利に導くことはできなかった。
 しかし、指導部が最大1、000名を結集して展開したこの闘争は、
      
「芝田進午を呼んで我々の三崎祭を行なおう」
という明確なスローガンを掲げ、種々雑多な要求項目を一応退けて進んだ。
 闘争に参加した学生は、理論武装と下部組織化の不完全を総括したのであった。
 最終的に敗北した芝進闘争だが数年間なかった大衆闘争として展開され、その闘争の過程で民主化闘争の為の闘う藤原執行部が生み出された。
 これによって経済学部での民主化闘争が、長期的に展開されることになり、我々学生の闘いの具体的出発点が与えられた。
 まさに学生は、大学権力の一方的学生抑圧政策に対して、自らの権利を獲得するために闘いを開始したのである。

 

次回へ続く(次回予告)
古田の走狗、応援団の跳梁と、闘う執行部・先進的学生のつば競り合い
経済学部の学生自治権をめぐる攻防
そして・・・・・・自治権奪還側は学内から粉みじんに飛散した
我々は壊滅した・・・・・
立ち上がれるだろうか????
わからない・・・
学内にははいれない
やるだけやってみるさ、もうあとはないのだから・・・・

 

 

 

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