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連載第三回 (1967)4・20屈辱の大弾圧事件

三、42年度学生会執行部成立以降4・20事件までの総括

   -応援団・研究会室闘争と当局からの大弾圧-

 芝進闘争の直後、以前のように、当局の圧力に屈し、大衆に闘いの方針を提起し得ない執行部では、学園民主化闘争は一歩も前進することはできない、という総括視点が、大衆的に確認され、芝進闘争を先進的に闘った学生たちが11月下旬〜12月上旬の、学生会選挙において、圧倒的多数の支持をもって学生委員に選出され、ここに藤原執行部が誕生するのである。
(1)応援団闘争 
12月10日、第一回学生委員大会において、新執行部が選出されると、彼らは、学友の数ある要求のうちから、当面する課題として、学内外で数々の暴力事件(4月の神宮球場における乱闘事件等)を引き起こし非難の的となっていた応援団の問題に取り組んだのである。
 学生委員大会の席上で一学生委員から問題提起がなされたことに端を発し、学園内に積極的な討論が開始されることになった。
 現在にいたるまで数々の暴力事件を引き起こして社会問題となり、激烈な批判を浴びている応援団に対して、「このような応援団による一連の暴力行為は、学問研究、真理探究の場としての大学において許されざるものである。暴力的性格をもつ応援団それ自体の存在意義はもはやない。」と判断が下った。
 応援団闘争は、一面において、学園内自治活動としての応援が、このような非民主的暴力団体にによって行われていることへの否定の闘いであった。
 同時にこの闘争は、応援団がその暴力的性格を内在しているのみならず、大学管理運営機構の中に、学生の自治に対する抑圧団体として明確に位置づけられている応援団に対する闘いであった。
12月10日、第一回学生委員大会で、応援団解散の提案が出される。
12月13日、第一回総合部会において、圧倒的多数をもって、応援団解散決議がなされる。
12月14日、第二回総合部会において、解散後処理について討論をしたのであった。
 そして次の諸項目が満場一致で決議された。
  @応援団部室の明渡し、
  A応援団所有物を学生会の下で管理する。
  B残額予算の返済、会計内容の明示、
  C本部応援団の経済学部内活動禁止、
  D本部応援団の経済学部内でのバッジ付帯禁止
12月16日、応援団部室没収。
1月11日以降、応援団解散に関するクラス討論の展開。
1月18日、本部応援団員がバッジをつけて、経済学部校舎内に入るところを、執行部員が発見し注意したところ、バッジ取り外しを拒否し口論となる。
 約150名の学生が集まって来たところで教室に入り討論、、
 その集会場に約30名の体育会系学生が入り込み、ヤジを飛ばしはじめ、集会を妨害した上、応援団員退場を引きとめようとした執行部員にに対し暴行を加える。
1月19日、執行部は前日の事件の報告と抗議集会(約600名)をもったが、またもや、応援団、一部体育会系学生60名が強引に介入し、ヤジを飛ばしながら議長席を占拠、議長団に暴行を加え、ついに流会となる。
 その後執行部員を取り囲み、再び暴行を加えた。
1月20日、執行部は、連日の暴力的弾圧にもかかわらず再度、抗議集会を勝ち取る方針を確認したが、しかし、暴力部隊によって、執行部は肉体的危機、すなわち、学内では身の安全が保証されぬ、と判断し、その時点で外に出たのであった。
 だがこれは、明らかに誤りであった。藤原執行部は当然その正当性と、学園民主化闘争を訴えるべく学内オルグ組織化と討論指導を徹底化せねばならなかった。
 執行部が18日、19日の集会に結集した学生諸君に対し、そして全学生に対し、何ら具体的方針を打ち出さなかったという点にも、我々は目をむけねばなるまい。
 1月20日以降、執行部、先進的学友はほとんど学内から去り、応援団闘争は事実上終息した。
 執行部は、大衆的な総括を充分になしえず、むしろ、うやむやのうちに、つぎの校舎改築の闘い----部室闘争へ方針を移していったのである。
(2)屈辱の大弾圧----4・20事件----
4・20事件の真相
 4・20事件は、その後の我々の自治活動に多大な影響を及ぼした。
 そしてその足跡は、現秋田執行部にまで連綿と続いている。
 ではまず4・20事件の真相を明らかにしてみよう。

(1967)4月20日、その日は、新入生・移行生歓迎大会が催される日であった。
 予定では、大講堂で午後1時より執行部役員の挨拶、引き続いて羽仁五郎氏の講演(私の大学論)、最後に映画「千里馬」が上映されることになっていた。
 ところがこの日、当局は早朝より、「定期学生証検査」と称して、経済学部へ入館する者一人一人に学生証の提示を要求し、経済学部学生以外は全て、入館を拒否したのである。
 実際、それまでに、このような検査が定期的に行われたことはなく、「定期」とわざわざ銘打ったのは、あたかも学生証検査が、毎年定期的に行われているように見せかけて、計画的に学生に目をごまかそうとした物であった。
 この学生証検査の意図するものは、その日、それから起こるであろうある事件に対して、他学部、あるいは、他大学からの民主的学生の動員を当局が恐れるあまり、事前にそれらの学生を阻止しようとしたものに他ならなかった。
 ところが一方、大講堂のある経済学部1号館の裏入口からは、他学部応援団、他学部体育部学生が、なんの咎めもなしに、続々と隊列を組んで入館していたのである。
(このことについては、多くの学友が目撃しており、当局がこのことをいかに隠蔽しようとも、事実は事実として存在している。)
 このようにして、歓迎大会の始まる30分前の12時30分前には、大講堂の席の大半が、黒い学生服を着込んだ400名ほどの、体育部学生ならびに応援団によって、占拠されていたのである。
(彼らはその日、大学より日当を宛がわれて動員されたことが、後に判明した)。
 このような状況下、予定の1時を少しおくれて大会は開催されたのである。

 ところが執行部役員が挨拶にたつや否や黒学生服400名の者らはヤジを飛ばしたり、大声で騒ぎ始め、執行部役員の挨拶を妨害したのである。
 またひき続いて演壇に登った羽仁五郎氏に対しても、ヤジや罵声は収まるどころか、いっそう激しさの度を加え、「アカ!」「ジジイ引っ込メ」等々の全く聞くにたえないような罵声が乱れ飛んだ。
 このような状態の中で、突然、応援団員、伊藤堅ならびにその配下数名がビラを撒き始めた。
 そのビラには、「全学連に結集しよう。」との見出しで、「オール、日大体育会の設備の全面的開放」「学生の営経参加(ママ)」「反動建学精神粉砕」「全学連への参加を闘い取り、米日軍事同盟を阻止しよう」等々の挑発的な文句が並べられ、その発行元は(経、短学生会執行部教育局)となっていたが、執行部がこのようなビラを作成した事実は全くなく、明らかにこれは、デッチ上げであり、当局の陰謀であった。
                 
(注!ニセビラ表面  ニセビラ裏面
 このビラを口実にして、応援団を先頭に数十名の体育会の学生が、演壇に駆け昇り、控室にいた執行部役員を暴力的に引きずり出し、ビラを片手に「全学連に結集しようとは何事だ」「建学精神の粉砕などとふざけたことをぬかすな」等と勝手な言いがかりを並べて、執行部員一人に7〜8人で襲いかかり、思うがままの暴行を加えたのである。
 しかも彼らの暴力の行使はこの会場だけにとどまらなかった。七階の大講堂から、執行部員を大勢で取り囲み、殴る蹴るの乱暴を働きながら、三階まで引き摺り下ろし、学生会室に連れ込んで、徹底的にリンチを加えたうえ、学生会室に置いてあった執行部の書類、私物、備品等々を手当たり次第引っ掻き回し、金目の物や重要書類を略奪し、彼らにとって必要ないものは、破壊して床にぶちまける等、暴力団さながらの振舞いに及んだのだある。
 あまつさえ、彼らは、ただ執行部員のみならず見るに見かねて止めに入った一般学友や民主的学友にも襲いかかり、ついには、あたりの光景は、到底大学の構内とは思えない惨状を呈するに至ったのである。
 こうして2時間半にわたる暴行の後、彼らは引き上げていったが、暴力を受けた学友のありさまは、実に無残とそか形容し得ないような状態であった。
 バットで顔を殴られた者、頭を壁に打ち付けられて脳波に異常を来たした者、胃を殴られて、数日間食物摂取不可能になったもの等、満足に体を動かせる者が一人としていないありさまであった。
 なんと言う暴虐!
 以上が
4・20時事件の真相である。ここに述べられたことに、事実の歪曲や誇張は、一切ない。
 このことがいかに真実であるかは、その場に居合わせた多数の目撃者の証言と、被害者当人の診断書が、明白に物語ってくれるであろう。
 しかも、この4・20事件に見られる計画性は、20日以降当局の取った一連の弾圧工作のうちにますますはっきりとその姿を暴露してくるのである。
(3)4・20以後、当局の計画的弾圧工作 
 当局は20日、暴力事件を起こすと、翌21日には直ちに告示を出して、学生の集会と団体活動を禁止した。
 そして、その日も学生証検査を継続的に行う一方、緊急教授会を開いて、「藤原執行部は学生指導の限界を超えた」との理由を持って執行部の解散を命じ、ついで5月1日「学内の秩序を乱した」との理由で執行部全員の処分を発表したのである。
 これらの解散処分の理由を一見しただけで、その不当性は全く明白であろう。
 また、この間、学内を集会、団体活動禁止という戒厳下におくことによって学生の討論、自治活動を封じておき、5月7日、当局は筋わら執行部の活動があたかも全て犯罪的であったかのごとく宣伝したパンフレット
「学生諸君に告ぐ」を発行したのである。
 これは戒厳令下何らの真実を知るすべもなく混乱していた多くの学友に対して、真実を歪曲、隠蔽して藤原執行部の解散、処分が正当であるかのごとく見せかける為の誤魔化しの手段に過ぎない。
 そしてまた、当局は、破廉恥にも反動教授を中心とする暴力事件調査委員会なるものを設立し、いかにも、20日の暴力事件の真相を明らかにするかのようなポーズを示すという手の込んだ芝居を打ったのだ。
 だが、調査委員会での多くの目撃者、被害者の証言にもかかわらず、今日に至るもなお、暴力行為者に対する処分はおろか、調査委員会の中間報告さえなされていない。
 これら一連の事実によって明白なことは、我々学生の自治活動に対する徹底的な弾圧と破壊とを当局が極めて巧妙に計画的に行ったかということである。

 

 

このあと、学生たちは、とんでもない事態に遭遇する・・・・
その事態とは……
学生自治奪還側は、更に更に追い詰められていく
以下次号

 

連載第四回 (1967)4・20事件総括血みどろの三年間


(4)自治活動の発展段階と当局の弾圧の本質

 4・20事件以降は、はや1年間を経過しようとしている。この戦いの中から、我々の前は(ママ)多くの教訓と具体的な勝利えの展望を与えてくれた。
 4・20事件の発生要因は、藤原執行部の闘争形態に起因すると一般的に考えられているが、その分析視点は一面的であり客観的な見方をおこたっている。(ママ)
 4・20事件の発生要因は日本大学の矛盾にあり、その矛盾を表面化させたのが藤原執行部時代の闘争形態であった。
 即ち4・20事件の発生要因は日本大学が内在的に保持している矛盾に我々の運動が作用を及ぼした結果、その矛盾が表面化したものである。
 このような矛盾の表面化が何故4・20事件以前に発生しなかったのであろうか。
 それは過去の闘争形態において見ることができる。
 芝進闘争以降の自治活動は、以前の自治活動の闘争形態と異にしている。
 芝進闘争--41年度三崎祭--以前は我々学生の自治活動にとって必要不可欠なものが欠けていた。
 即ち自治活動を行う為に学生から選出された代表が客観的分析を誤り、現在の日大権力は強く、その反面我々日大生の意識は低く戦ったなら必ず敗北する、今は戦う時期ではなく大衆化をし、力をたくわえる時期である、という宣伝を大々的に行うことにより、学生の要求を無視し意識の問題にすり替え、戦いを放棄し自己の面目を堅持しようとしたのである。 
 このような闘争形態であるなら当然、主観的にどうあれ、現在の学生会連合会のように当局と学生の緩衝地点と化し、実質的には大学の出先機関としての機能を果たしていたのである。
 この様なことからして、日大の矛盾現象をとやかく言うことはできても、日大の内包しているすべての矛盾を学生の前に暴露し、それに対する戦いを遂行することができなかったのである。
 このようなごまかしは学生の切実な要求を前にしておのずと否定されるのである。
 それが芝進闘争であった。
 この闘争の間執行部は過去の基本姿勢を守り、破廉恥にも学生を押さえにかかったのであるが、一般学生の闘いが執行部の方針を打破し、学生は三崎祭に対する当局の不当介入に抗議して、三崎祭を勝ち取るために学生自らが立ち上がったのである。
 この闘争の中で学生は闘いを知り、戦わずして学生の権利・学問の自由を獲得できないことを知ったのである。 この芝進闘争の中から藤原執行部が誕生し、42年の自治活動は当局の教育方針により苦悩する学生の要求を貫徹し、真の学問の場を獲得する為の闘いが展開するのである。

 これは日本大学の経営者に脅威を与え我々の自治活動にとって大きな前進であった。
では何故、当局と学生の自治活動は対決せざるを得ないのであろうか。
 それは日大の経営方針に基づく教育方針、日本精神と真理探究の場として位置づけられる大学の矛盾にみいださる。
 即ち、現在の日本大学が、本来の大学の使命から逸脱し、利潤第一主義に走り学生を一個の商品と化して、大量に大学卒の免許を売り、また新たな人間を投入し単純な再生産構造をもってして、大学卒という名の人間を社会に送り出すのを真の目的としている。
 また日本大学の教育方針・日本精神も、経営第一主義を隠蔽する手段として使われているという恐るべき事実が存在する。
 このようなことからして我々が学生としての権利を、学問の自由を主張するならおのずと両者が相いれない関係となってくる。
                                (討議資料ー1967年4月作成)


次回は  四、4・20暴力的解散、処分事件以降現時点までの総括























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