「血みどろの3年間」  連載(3)              ホームページへ   戻る   つぎへ

四、4・20暴力的解散、処分事件以降現時点までの総括(注:現時点とは、1968年8月初旬)

--自治権奪還の三崎祭、獲得運動を中心として--

(1)4・20以降から後藤(健)代行声明拒否、当局の態度

 42年度の自治活動は、我々学生に対して重大な問題を提起した。
 芝田進午闘争から発し応援団問題、部室闘争と学園民主化運動により、混迷し続けた我々の自治活動に大きな光明を与えたかのようであった。しかし4・20事件の暴力弾圧、執行部解散(4月21日)戒厳令と称し、クラス、サークル討論の禁止、執行部全員処分(5月1日、除体育部長)と我々の自治活動に対し学校権力は自らの矛盾を露呈し我々に大弾圧を加えたのである。、
 我々はこの大弾圧に対し怒りと憎しみを持って破壊された自治の中から自治権奪還をめざし、6月23日の学生委員大会において、
  (1)4・20暴力事件の暴力学生処分を早急に発表せよ。
  (2)教授会に解散権はありえない
  (3)執行部を支持する。
  (4)三者(学生、当局、執行部)の公開討論会を開催せよ、
の決議がなされ、我々の自治権奪還の第一歩が踏み出されたのである。
 当局は我々学生委員会でなされた決議を無視し、当局が我々に取る態度は学生がなんと言おうと、6,000名の学生が不当弾圧だと叫ぼうと、学校側が決めたことは絶対撤回できないのだと言い張るのである。
 それにもまして、この決議事項の掲示さえ許可をしなかった。
 これこそ当局自らの手で犯した犯罪性を、一般学生、社会に知らされるのに恐れをなした当局の結果的行為であり,事故の不当性を自覚しての事である。
 サークル責任者会議、学生委員会は当局の一連の弾圧,自治破壊に抗議し,当局の非を正そうと、運動を継続してきた。
 当局は我々に攻撃の手を一歩もゆるめることなく,自から引きおこした矛盾を隠蔽しようと後藤健太郎代行委員長なる執行部をデッチ上げたのである。
 この執行体の性格は、我々の自治活動において、当局の自治破壊を隠蔽し,我々の自治権奪還運動を否定するものであった。
 彼の行動の当然の帰結として,10月14日の学生委員会において代行委員長は否定されるのである。
 ここで重要な視点が見出される。
 彼のデッチ上げられた経過をかえりみると,全くの当局との裏交渉であり,学生委員会で何ら話し合われたことはなく代行委員長なる声明文を一方的に発表(7月10日)しており,ここで当局の代行執行部デッチ上げの意図を総括してみれば、当局にとって自己の利益になる機関なら,学生の自治,民主的な機関を無視し,どんなどんな非民主的かつ不正なものであろうと承認し利用しようとする、ということがここで明白になったものである。



(2)、10・25以降当局の三崎祭実行への干渉
                 --悪辣な拒否--

 このように42年度の自治活動は4・20事件以降学生会執行部不在のままで、苦難に満ちた状況下に置かれていたが、10月25、6日の学生委員会において、実行委員会において、実行委員会、三崎祭実行委員長が選出・承認され、全学生の主体表現の場である三崎祭が提起され、三崎祭めざして実行委員会とともにクラス、サークル、ゼミナール、女子部と、広範な学生がその実現化のために全勢力を結集して、邁進してきたのである。

 大学祭は、学生が1年間の活動を通して、主体的に行った結果の、学術、文化活動の総括の場であり、対内的対外的発揚の場である。
 そして学生が何ものにも拘束されることなく、自らの手で実践、発表する場である。
 このように自治の一環としてとらえられ、この観点に立つなら、4・20事件以降の自治破壊、自治権奪還の総括の場として三崎祭が提起され、三崎祭テーマ「失われた物をのり越えて」に見られるように、まさに三崎祭は自治権奪還の場として位置づけられるのである。
 そこにいかなる困難性が内在しようと、我々学生が自らの手で実践し成功させなければならない。
 さきに述べたように、この三崎祭実現化には自治否定下で当初から困難性が存在していた。
 この困難性は、学生が引き起こした物ではなく、当局がおこなった解散処分と一連の自治破壊にその原因が存在するのである。
 従って我々はこの事実を黙視することはできない。
 また黙視できない事態が現存するのである。
 すなわち学校権力は自らの手でおこなった犯罪行為を隠蔽しようと、規約違反を持ち出し、学生委員会によって承認せられた実行委員会のもとでは三崎祭は行いえない、三崎祭を行おうとするなら規約改正か代行執行部成立かのどちらかひとつを満たさなければならないと、三崎祭を学校当局が行うのだと言わんばかりの転倒した理論で、我々の三崎祭実現化の努力に対し妨害してきたのである。
 当局のこの犯罪的な態度は、我々に対する単なる妨害にとどまることなく、その裏には4・20以降一連の我々に対する弾圧の実態を隠蔽しようとする意図が含まれているのである。
 すなわち代行執行部が成立すれば規約違反でなくなり、三崎祭は行われるであろう、ということからも判るように執行部が解散された時点で、4・20以降の重要な課題--執行部解散--が、あたかも解決されたというふうな理論構成を持って、当局自らが行なった解散という事実を隠蔽しようとしたのだ。
 当局が真に執行部成立を願っているなら、当局の行った解散・処分を撤回することが先決ではないか。
 また代行執行部を設立して規約違反にならないという論拠はどこにあるのだろうか。
 三崎祭実行委員長は執行部委員長が当たる(行事規則第4条)--42年度は藤原委員長--ということを当局はどのように考えていたのだろうか。
 委員長の件だけでも、当局の行った一連の自治破壊を認め、当局が解散・処分を撤回しない限り我々は規約を守れないことを知っていたのだろうか。
 当局が撤回を行わなくて、規約改正か代行執行部設立を行えと言うのは、我々の三崎祭を妨害ないし中止させようとしているといわれても、学部当局に弁解の余地はない。

 一部学生に三崎祭をやらないで文化祭を行ってはという意見が出てきた。
 このような意見の裏には、三崎祭は当局が拒否しているから文化祭(当局は当初から研究発表会としての文化祭はやらしてやると言明していた)を行うということが裏に隠されている。
* これこそまさに我々の三崎祭を否定し、自治を否定する以外の何ものでもない。
 三崎祭は何ら学部当局のものでなく、お祭りでもなく、我々自身が行う一年間の自治活動の集大成の場のはずではないか。当局の文化祭論は荒れわれの自治を否定し、我々に対し発表の内容までも規制しようとする意図を明確にした。このような文化祭には何の価値も存在しない。



 
(3)全学生の主体的活動・方針・運動論の総括

 42年度の我々の活動を総括するなら、4・20事件以降研究会、同好会においては藤原執行部の運動の継承である部室闘争を推進してきた。屋上に追いやられていた我々の研究会部室も校舎改築を機に、我々の研究会活動に支障をきたしていた狭いつな部室をもって研究を行えというのは、真にサークル軽視、学問軽視である」という観点から一研究会一部室獲得闘争を推進してきたのである。我々は執行部とともに部室闘争を推進していき、4・20事件以降解散・処分と一連の大弾圧を受けながら、執行部不在のまま運動を継続していったのである。これこそ我々が、単に執行部に自治活動をまかせきりで、我々が執行部の命令の下に活動していたのではなく、42年度の執行部と我々が一体となって運動を推進してきたことの証明となるであろう。
 それがまさに、一連の自治破壊の状況下にありながら、我々の手で29部室、2同好会、4学習室獲得というということになって現れた。
 
 4・20事件以降混迷をし続けた学生委員会も、6月5日に議長団が我々の手で選出され、自治権奪還闘争が全学生的な運動形態において展開しうるようになるのである。更に6月21日の学生委員会において、
  一、集会・クラス討論の自由を保障せよ、
  二、教授会・処分されている執行部・一般学生の三者の公開討論会開催を要望する、
  三、教授会による学生会解散はありえない。
  四、4・20事件の暴力行為者の処分を早急に出せ。今後学園内における一切の暴力を追放する。
という決議、そして6月23日の学生委員会で、
  一、学生証検査を即時撤廃せよ。
  二、新執行部選出はしない、
  三、執行部を支持する。
以上の決議がなされた。
 ここに全学生の自治活動方針の決定・発表の場で当局の犯罪性が明らかにされたのである。かつ、当局に対する運動を学部的な運動形態として推進していったのであった。

 学部当局はこのような状態に危機感を抱き、後藤健太郎君を使って7月10日に後藤健太郎君の代行委員長をデッチ上げ、声明文を発表するのである。我々はこのような犯罪的かつ非民主的な行為を許すことはできず、後藤健太郎君の研修会をボイコットし、断固として抗議の姿勢を示したのであった。
 10月14日、彼自らが召集した学生委員会で、後藤健太郎代行執行部委員長は、否認されるのである。

 このように、我々は自治否定の状況下で学校権カの反動化を打破の、自治権奪還のためうんどうを推し進めてきた。その中において、自治活動の一環である三崎祭が10月19日の学生委員会で提きされ、実行委員会が選出されて、三崎祭を成功させる為、全学生がたち上ったのである。
 三崎祭を我々の手で成功させる為、参加パ一トと実行委員会は、深夜まで展示の作業と,当局の不当介入に対する対処策の討論を継続してきた。
 また当局との、実行委員会の交渉に対し参加パ一トは全面的な支援を送ったのである。
 これら要望書と一連の決議によって確認される。

 10月27日に至るや、70名の学生が自主的に学内に泊まり込みを決意し、三崎祭実現化の為早朝迄討論を展開するのである。
 しかし、このような我々の切実な要求にもかかわらず、当局は、一貫して我々の要求を拒否してきたのである。
 10月28日午後9時40分から行なわれた学生250名と当局(井手・木村両副指導委員長)との大衆団交に至るや、我々の理論の正当性に論駁できなくなり、自ら敗北を認めるかの様に学生との話合いを途中で放棄し、大衆団交の席から逃げ去るのであった。
 このような事態に直面した学部当局は、民主勢力に恐れをなし、実行委員会と学生を分断し、実行委員会に圧力をかけ、学生を抑圧しようと10月30日2つの条件、
  一、規約改正、
  二、執行部代行委員長一
 なるものを実行委員会に押しつけて2つのどちらかの条件をのまなければ、三待祭を行なわせない、そして展示パートの学内宿泊は実行委員会がこの2フの条件をどちらかをのみ、展示パートにこの系件を認めさせるなら宿泊を許可すると、犯罪的な圧力をかけてきたのである。
 当局の条件に実行委員会が屈したとき、展示パートは作業ならびに討論を継続するために宿泊の用意をしていたが、この方針転換を聞き、210名全員が条件に抗議して午前0時に学外撤去するのである。

 三崎祭を明日にひかえた10月31日には、午後4時から午並0時15分に学生季員大会、拡大度示部会と、8時間の討論がなされた。
 4・20事件以降、掲示その他の伝達の機関が当局によって阻止されていた為実現されなかった大衆的動曷が,このとき初めてかちとられ(参加人員420名)4、20事件以降の一連の自治破壊に対する事実の究明と学部当局の不当性が明らかにされ運動の緒展開が大衆的になされたのである。

(4)今後の我々の運動展開

 我々は10月31日の24時をもって当局の巧妙な妨害によって、三崎祭をかちとりえず、自治権奪還闘争をこの時点では勝利しえなかった。
 が、一年問の我々の自治活動をかえりみるに、実に前進的なものであった。
 解散・処分以降の弾圧の中で、部室闘争、解散・処分白紙撤回闘争、三崎祭獲得闘争等、これらの運動の共通した点で重要なことは、何ら学部当局に与えられたもの子はなく、我々学生の切実な要求から発した運動である、ということである。

 前述のように、我々の勝利しえた運動は残念ながら悪い。
 しかしながら、執行部不在の状況で、我々自身の運動として推進し、学校権力の介入弾圧(18部室論、集会、表現の自由の合定、実行委員会案、文化祭論を打破し、自治権奪還闘争を展開してきた意義は大である。

 我々は4・20事件を総括し、運動を推進する過程で,部分的ではあれ重大な勝利を獲得してきた。
 しかし4・20事件は終わっていない。
 4・20事件で受けた我々の屈辱は、我々が自治権奪還闘争を貫徹しえたとき、初めてぬぐい去ることができるのである。

 我々の前に、新らしい局面が、立ちはだかってこようとしている。
 それは43年度執行部選挙問題である。我々は直すに討論を展開し、42年度の自治活動を徹底的に総括――藤原執行部の如く、学校権力の排圧に敗北しないような執行部の擁立、この敗北で研究会,全学生は多大は損害を受けた―一し、自治権奪還闘争を勝利の道へ導かなければならない。

 我々がこの闘いに勝利したとき、それがまさに経済学部の、学問の府としてのあけぼのであり、我々が日本大学の学生として真に誇りをもてるときである。

               1967年11月16日(討議資料)

 

続く  次回は

五、秋田学生会執行部誕生と自治権奪還闘争の全面展開

(1)43年度執行部の成立と、当局の弾圧政策

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