「血みどろの3年間」  連載(4)              ホームページへ   戻る   つぎへ

五、秋田学生会執行部誕生と自治権奪還闘争の全面展開

(1)43年度執行部の成立と、当局の弾圧政策

 我々は、4・20事件以降の当局による弾圧の下で、真正面からこの不正に対して戦いを起した。
 我々はこのような困難な状況下から自治権奪還をめざして、闘いを継続し再び学生の真の要求を貫徹する為の闘う執行部を、我々の手で成立させたのである。
 43年度の闘いは、我々の自治活動に勝利の展望を与えてくれるものであり、学校権カにとって脅威を与えるものであった。
 すなわち我々に対して学校権カは暴力、解散、処分、乃び、学生に対する拘束による徹底的な自治破壊活動を行なった。
 当局の弾圧の意図は、真の学問の場を、学問の自由を勝ち取る為の闘う学生を一掃することにあった。
 しかしながら、12月9日(1967年)の学生委員会において、再び闘う執行部として秋田執行部が闘いの中から生れた。
 4・20事件以降の屈辱と、我々の怒りの歴史は終焉をとげるかのように見えた。
 しかしながら学校権力は、自ら下した犯罪的な弾圧の失敗を認めながらも破廉恥にも、再び犯罪的な行為を学生の前に露呈させるのである。
 応援団系学生の執行部に対する暴力的威嚇、当局からの恫喝。
 学生会予算の一時停止、研究会の顧問制の介入強化、電話盗聴等と学生会執行部成立当初から、学生の前に試練がまちかまえていたのである。

(2)43年度自治活動

 43年度の自治活動はいかなる発展段階を経て現在に至っているのであろうか。

@具体的自治治動を遂行できなかった時期(古賀執行部以前〜1966年)

A基本姿勢が確立し、闘う自治活動を逐行した時期(
藤原執行部時代)

B当局の犯罪的弾圧で自治を剥奪され、8ケ月の長い闘いで、我々の手で、自治権を奪回し再度闘いを遂行しようとする時期(秋田執行部時代)

 4・20事件は当局の矛盾暴露した反面、藤原執行部の限界性をもその時点で表面化させた。
 我々はこのことを総括し敗北し得ない闘争を展開しなければならない。
 又、4・20事件以降の闘いで大学権力に決定的な打撃をも与えたことをも考えなけれぼならない。
 即ち4・20事件で権力が意図したのは、日大経済学部の民主的勢力を一掃することにあった。
 それが8ヶ月間の闘いで、権力の意図した目的が達せられず、かえって民主勢力が4・20事件の闘いの中で増大し、より広範な闘う学生が誕生したと云うことである。
 我々は再び4・20事件の弾圧が、何時降りかかろうと打破できる力を保持している。
 しかしながら我々は弾圧を打破するのが目的ではないし、一時的な敗北も許されない。
 我々の学園民主化闘争は勝利の為の闘いでなければならない。

(3)43年度の闘争の経過

 12月9日昭和四三年度、第一回学生委員会が開かれ新執行部が成立する。
 直ちに学生会費凍結が行なわれ、その引出しには多大の日数と細密な使途内容の明記代(ママ)が強要される。
十二月二十日応援団系学生七〇名学生会室を包囲し、執行部員に対して恐喝を行った。
 十二月二十六日十八〜二十日頃出された陰謀的ハガキに対するバンフ、また今までの総括文が検閲を受けその郵送が全面的に拒否される。
 昭和四十三年一月二十五日陰謀的ハガキに対する声明文が
  @全学生を対象としたものではない。
  A四・二〇事件について書いている。
  Bこれを出すことによってトラブルの起る可能性がある。
等の理由によってその掲示が拒否される。
 一月二十九日毎年学生会で行っていた新入生を対象とした下宿斡旋業務に関し、学校側でやるから、直ちにその準備を中止せよと的場指導委員長より命令を受ける。
 二月五日機関紙「建学の基」原稿募集の立看板が一度許可を受げたにもかかわらずあとになって大学当局の手によって強制撤去される。
 その理由は、
  @掲示場所に違反している、
  A不必要に大きい(ベニヤ板二枚)
  B書体、色彩
が刺激的で誤解され易い。
 二月八日下宿斡旋業務を開始したが直ちに妨害を受げる。
 家主からの電話が交換台により、学生課に横流しされる。
 四月六日当局は研究会責任者を集めて、顧問教授再編成を行うことを表明、尚この日執行部は伊豆にて研修会を持っていたが何らその件について連絡はなかった。
(68年秋田執行部写真)
 四月八日的場指導委員長「下宿斡旋を行ったことに対して謝罪文を書げ」と強要。
 また「建学の基」について何故ゲラ刷りの段階で持って来なかったのか、等の発言により配布拒否。
 四月九日〜一五日春季リーダースキャンプが行なわれ
  @顧間教授制度改悪並に強化案の白紙撤回、
  A新入生、移行生歓迎大会に大量結集を行うことが確認された。

 4月13日当局より呼び出しがあり、「建学の基」の配布は全面的に拒否され、新入生、移行生歓迎大会はこれを開かせないと表明する。
 今年度学生会執行部は、三島、世田谷の教養過程を終了してくる二年生と短大一年生の為、昨年と同じ4月20日に、歓迎会を計画した。
 その内容は、
  @実行委員長並に学生会執行委員長挨拶、
  A講演、日高六郎東大教授
  B映画「僕の村は戦場だった」の三点であった。

4月15日 執行部と学部当局との団交の場で、当局は建学の基に、「その内容が大学を非難し、事実を歪曲して編集しているものであり、第一事前に当局に話しに来なかった」と云う理由で、配布禁止の命令を下した。
又、女子部機関紙も「学生会基本方針(暴力的弾圧を排除し、学園民主化を勝ち取ろう)を削除しなけれぼその配布を許可しない」とその削除を命令する。

4月16日 当局と学生会執行部との会談で歓迎大会は
  @講演者日高六郎は、左翼で、思想的に悪い.東大で良い教授でも、日大でよいとは限らない。
  A四月二十日は昨年暴力事件があったので、期日が悪い。
  B四月二十日土曜日は講義もあり、受講をとりやめてまで行なうこともあるまい。
という理由でこれまた当局によって一方的拒否を受けた。

 4月17日、学生自らが計画した歓迎大会に対する当局のこの一方的禁止通告をめぐって、拡大総合部会(サークル責任者を中心とする会議)、が執行部のもとにもたれ、歓迎大会禁止理由の明確化を団交の形で要求するも、拒否され、更に「5名ならば会う。出席学生の氏名を提出せねば明日の部会も開かせぬ」と、執行部に通告がなされた。

 4月18〜19日、拡大総合部会の決議で再度歓迎会「建学の基」禁止理由の明確化を要求したにもかかわらず、5名のボス交渉の線をゆずらず、学生指導委員長は大学校舎から逃げ出すに至った。

 4月20日、十一時頃より、5階に学生700名が結集し、歓迎大会要求集会。
 一方当局は集会解散命令をして退散。
 学生数百名は、二階の指導委員長室前に集まり、大衆団交を要求し、次のような決議(@大会開催を許可せよ。A歓迎大会、「建学の基」禁止理由を、全学生の前に明確化せよ。)を採択した。

 4月21日 20日の無届け集会と日高六郎氏のメッセセージを読み上げたことに関して謝罪文を書けと強要するもこれを拒絶する。

 4月22日、当局は「歓迎大会に関する拡大総合部会のための教室は、一切貸す訳にはいかない。」と発表し、同時に歓迎会に関する告示(「その計画が一方的で学生会との話し合いがつかず、許可しなかった」)、がだされ、一方機関誌『建学の基』に関しては、その内容から「日大の現状一内外状勢分析、巻頭言等を全て削除し、研究会紹介記事のみにせよ。」との通告をした。これに対して学生は、抗議文を作成し、大衆団交の要求を再確認した。
 学生の白治活動に対しては、「誤字.脱字をなおす」名目で徹底的な検閲制度がしかれ、出版物の発行禁止を行ない、集会討論の自由はうばわれて、もはや学生自治活動は全面的に否定されている。
 加えて経済学部校舎入口では学生証検査が行なわれ、日大の学生でありながら他学部の学生や、所持していない学生は入ることができず、学内での学生の行動は全面的に統制されている。
 4月下旬には、当局は、サークルに対し、その自由な研究討論発表の権利を犯して研究会活動全般にわたる統制をもくろんで、顧問制度改編強化を打ち出し、サールク会員の前に公然と介入統制の制度化を提出した。

 4月25日、当局は三島校舎の元自治委員を集め、現執行部を中傷し、反執行部組織設立の為、学生委員に立侯補せよ、また研究会に入れと指令する。-的場、橋本-


 5月上旬、学生会執行部は、新二年生、短大の学生委員、代議員選出のための選挙活動に入ったが、当局は直ちに、学生自らが行なう自治活動クラス代表者の選挙も、権力の手で中止させられてしまった。
 以後選挙を強行したが、教授、職員により徹底的な妨害が加えられ、苦難を極めた。
 破壊された自治のなかから、大弾圧に対する怒りと憎しみをこめて学生は、自治権奪還闘争のホコ先を当局に向けた。

 こうした状況の中で「日大使途不明二十億円」が東京国税庁より明らかにされた。
 4月15日頃から連日新聞紙上をにぎわしている、この事件に対し、学生の眼が集中したのである。
―小野教授脱税発覚、富沢経済学部会計課長行方不明・理工学部会計課女子主任「私は潔白」との遺書残し自殺、まさに全日大学生の目前に直接、学校権力の犯罪性が暴露されたのである。
 過去毎年授業料を値上げし、その結果がこの使途不明金事件である。
 全学生の貴重な授業料が教職員の「ふところ」へ政治献金等へ、また応援団、右翼学生への手当等学生対策(=弾圧)費に使われていたことは明らかであり、大学当局が、全学生を裏切り続けてきた罪に重大である。
 当局自らの手で犯した氾罪の全体が、学生、杜会に知れわたることに恐れをなし、学生の怒り、団交要求の声を、ボス交渉と「説明会」ほのめかしにすりかえる一方、暴力的弾圧を加えてきた。

 5月20日 23日に予定していた学生委員会の開催が拒否された。
 議題が20億使途不明金に関してとなっていた為に、当局の理由は、
  @20億問題に関しては学校が見解を出すまで待て、それから話合っても遅くはない。
  A新入生、移行生の選出が完全でないから学生委員会は開催出来ないはずである。
の二点であるが、一方的に選挙を中止しておきながらこの様な発言を行う当局は正に論理的ではなく、「力によって弾圧」と云うしか形容はない。
 そしてこの怒りは次への大きな運動への原動力となるのであった。

 5月21日、から執行部を中心に、地下ホールで討論会が開始されるに至り、そこで学生の怒りの声は、怒涛の如くわき上ってきた。
 深化していた日大の内部矛盾が一挙に顕在化したのである。
 学生は自ら、いま沈黙を守る者は大学当局の犯罪を許容するものであり、同じ犯罪を犯すものでしかない、ということを知っている。
 執行部をはじめ先進的な学生の提起と、学生大衆の心底からの怒りとが一体となりこの日、当局の弾圧の具体的実例による徹底的暴露がなされ、再度の抗議集会挙行を確認して解散した。

 5月22日 抗議集会。再び当局の狙罪性追求、一連の学生弾圧、自治破壊の事実究明、学部当局の不当性が明らかにされ、抗議運動の総展開が大衆的に定着しはじめ、
  (1)当局の学生弾圧粉砕!20億円不正事件を糾弾する!
  (2)学部当局は大衆団交に応ぜよ!というかたちに集約されていった。
 ところが一方、この日当局が学内放送を通じて「地下ホールでの集会は不法であり、直ちに解散せよ」
と自らこの状況に危機感を抱いて桐喝を加えたことによって、逆に集会が行なわれている事実を全学生が知ることになった。
 結集した450人の学生により、二階指導委員長室前を埋めつくし、学生課長と会談したのだが、学生の正しい論理と追及に学生課長は何ら反論しえず、逃げ出す始末であった。
 学生は明日の再結集を確認して解散した。

 5月23日、昨日提起されたスローガンの確認の上に、2,000人近い学生を結集して討論が展開された。
 学生の下からの怒りの声は、当日から行なわれた学生証検査に対する抗議となり、学生は主体的行動形態をとるようになった。                
写真@   写真A
 集会後、校舎外にでた1,200名の隊列の、校舎包囲とシュプレヒコールは、明確に学生の闘いの決意と連帯とを示していた。
 それは、大学当局自らの手による学問研究教育機関としての基本的条件を喪失した日大の現状と、その一般的必然的帰結としての利潤追求を目的とした、日大私学資本への、そして全国的に巻き起る大学制度の改編のなかで強化される大学自治の破壌への、学生の白治奪還闘争が本格的に出発したことをも意味していた。

 5月24日800人の学生集会に、権力の手先である体育部右翼学生が入り込み、暴行を加えると同時に、学部当局は校舎出入ロシャツターを下し、学生をしめ出した。
 これに対して学生は、校舎前座りこみ、集会、デモによって、怒りをこめた抗議を当局にたたきつけたのだった。
 デモ隊は約700名、裏通りを通って近くの公園に行き、そこで闘いの決意を新たにして、再び経済学部校舎へ怒りのデモをかけた。
 大学キャンパスがなく、シャツターによってしめ出された学生にとって、座り込み、集会、デモは、学生がとりうる唯一の抗議闘争の形態であった。
 再び戻ってきた学生はそこに、暴力的体育部右翼学生によってのみ守られた、末期的症状を呈する日大の本質を見た。
 まさに大学を学生の手にとり戻す闘いは、既にこの日全学的決意の方向を展望していた。法学部校舎もこの日、シャッターを下ろしたのである。

 5月25日、学部当局は校舎内に告示を出し、執行部12名、他3名が自宅謹慎の処分を受けた。
 そして当局はパンフ「学生諸君に告ぐ」を配布し、自らの犯罪を陰蔽し、真実を歪曲することを画策した。
 しかし学生はひるむどころか、この策謀を鋭く見抜いて、校舎前に抗議集会を行ない、2,000人が決起した。
 そしてこのなかに、経済学部の闘いに呼応して決起した法学部と世田谷文理学部の学生が断固たる決意のもとに加わり、公園に向けて1、000人デモを敢行したのである。そして更に各学部連帯した共闘は、再び経済学部、法学部前をデモし、本部前に大抗議集会を展開した。
 腐敗と犯罪の元凶、日大本部前のこの2、000人抗議集会は、国家権力と結んだ日大当局の、嵐の如く吹きすさぶ弾圧に抗して、敢然と立ち上がった学生の激しい抗議闘争の中から各学部闘争委員会が設立されたことを、大衆的に確認し、スローガン
  ○二十億円使途不明金事件糾弾!
  ○学生自治弾圧粉砕! 処分白紙撤回!
  ○大衆団交要求!
 を確認すると共に、27日12時各学部別決起集会、二時三崎町全学部総決起集会という戦術確認と全学共闘会議設立への展望を明らかにした。
 そして、火曜日大衆団交を設定し、闘いの決意と連帯を再確認した後、激しい抗議のデモを組んだが、このときに制服警官五十人と、右翼学生の暴力によって、五名の負傷者がでた。

 5月27日、各学部闘争委員会のもとに、12時、経済1、000、法600、文理2、700が各学部別に結集し、
抗議集会を開き、2時に三崎町に集結した。
 それに先だって経済学部闘争委員会は、学部当局に対し20名の交渉団を派遣して大衆団交を要求したが、席上指導委員長は「討論会は基本的にはよいと思うが、具体的には答えられぬ。処分と言うがあれは所謂処分ではなく、校則に基づいた慣習である。学生証検査は私の権限ではどうしようもない。」
と、ごまかしと責任のがれにでてきた。
 これによって、経済学部前の路上での抗議集会は、全学総決起集会の形で遂に3,000人にふくれ上り、路上を埋めつくした。
 各学部閾争委員から、熟烈な連帯の挨拶と闘いの決意が述べられ大学当局への糾弾の声が渦巻いた。
 芸術学部七〇人を含めたこの集会で、28日の戦術確認‐‐12時、各学部別決起集会、2時半、経済学部前総決起集会、そして再度の団交要求団派遺、示威行、本部への団交要求‐‐をなし、御茶の水に向けて断固たるデモに移った。
 2、000人のデモの前に、四機指揮車をはじめ警官は、圧倒され、本部前には、おののいた当局がバリケードを築いていた。

 5月28日、前日の総括集会での戦術確認どおり、12時各学部集会後、2時半経済学部校舎前全学部結集、3、000人の学生による当局糾弾・弾圧粉砕・団交拒否抗議の集会がもたれた。
 この日も経済学部当局は自らシャツターを下ろし、学生を校舎からしめ出した。
 この集会は再び当局の犯罪的本質を暴露しこれを大衆的に確認した。
 そして共闘会議を中心とした15名の団交要求代表団と、経済学部当局との会談内容、即ち「@学部当局は全ての集会を認めない。A自宅謹慎は、処分ではない。Bいわゆる使途不明金について指導委員長は内容を知らず自分はやみ給与を受けていない。」という発言が報告されると、学生は自治権奪還闘争の展開の中に、この当局の欺瞞性を鋭く暴露していった。
 集会後3、000名の学生は本部への抗議デモ、続いて神保町交叉点→理工学部→淡路町公園へとデモを打った。
 公園での総括集会では、全共闘秋田議長が「決意表明文」を読み上け、31日文理学部世田谷において全学集会を開くことを提起、確認した。
 なお、この日あたりから、学生内部での分裂策動がめだち、特に文理学部、その他の自治会執行部は、全共闘・各学部闘争委に対し、「一部の過激な学生」ときめつけ、大学当局と口をそろえて宣伝しはじめた。
 5月29日、各学部別決起集会。
 31日文理キャンバスでの、大衆団交要求総決起集会へ向けての準備を、この日と31日になすことになった。
 なお、商学部集会は1、000人を結集した。
 体育系学生200名本部前で「デモ実力排除」と叫び集会。
(注:参考写真)

  
  (本文、21頁)

 5月30日、31日へ向けて、この日も学内オルグ、個別討論を徹底化し、クラス・サークル・ゼミでの決議文採択の方向がうち出された。
 学連中執は、全学的に何ら確認せず、当局に団交を申し入れ、@経理公開、A理事遺陣、B話し合いの場の設定、をうち出した。
 なおこの日夜、厳密には31日早朝、経済学部校舎にステッカーを貼りに行った学生が、私服とバトカー・につかまり(三名)連行された。
 翌1日夕方釈放、道路法44条違反、学生運動弾圧の新手である。
 5月31日、この日から闘いは新たな段階に入る。
 11時、文理大講堂前で文理学部闘争委のもとに800名の集会が行われ、12時半そのまま本館前に移行してスローガンを確認したあと、2時に結集する予定の他学部を迎えるべく正門前に座り込んだ。
 ところが1時頃、体育系一部学生を中心とした右翼ゲバルト部隊がいきなり殴りこんできた。
 無抵抗な学生に対し、自らの身体全体が凶器である彼らはなぐるけるの暴行をふるい、学生30数名に負傷をおわせ、内3名は救急車で病院に連ばれたが、内臓損傷、腎臓内出血で重体である。
 大学構内での白昼公然たる暴行を許し直ちに校内放送を通じて、「デモ・集会に参加するな。参加するとケガをする。」と当局は破廉恥にもわめく。
 その許しがたい犯罪を目前にして、もはや学生は、自分達にとっての敵は、誰であるかを明確に理解した。
 この頃三崎町では、経済学部前に経・法・理を中心に三〇〇〇名近い学生が結集し、世田谷文理へ向けて隊列を整えた。
 この部隊は2時半文理に到着、農・商・芸も加わって、グランドには8、000人の学生が集まった。
 各学部闘争委からの連帯の挨拶と闘いの決意が述べられ、先刻の一部体育系の暴行が報告された。
 3時半構内突入、キャソバスデモ・中庭集会。
 この集会で再び体育系学生は、外側から学生をなぐり集会破壊を試みた。
 ところが、新聞社・テレピ局のカメラマソがその模様を撮影しだすと、直ちに近くにいる学生指導委員長がとび出して暴力学生をなだめ押し戻すポーズをとる。
 そして日く「カメラにとられるからやめろ!。」
 集会は全共闘学生代表を団交要求のために文理学部長室に派遣したが、再びそれが一蹴されるや、「最後の勝利まで断乎闘う」と決意し、4日三崎町大集会との全共闘方針を確認して激しい抗議デモに移った。
 本館前には、明確に当局によって指導された体育系学生が500名程集まり、入口を固めており、スキあらば再びなぐりかからんとしていた。5、000人を越える大デモは、構内デモの後、下高井戸から甲州街道に出て、明大和泉校舎まで延々と続いた。
この日、文理学部当局は、学部学生に対し、全面休講を通告し、渋谷駅、下高井戸駅には、登校禁止令まで出す始末であった。

 6月1日、各学部別集会。前日の報告をなし、六月四日大闘争を徹底化した。文理学部長以下文理指導部は、先の重傷者三名を訪れ前日自らの暴力装置を用いて暴行をはたらかせたのにもかかわらず、はずかし気もなく「公けにしないでほしい」と三名の学友に要請するのであった。
 六月二目、三一日に重傷を負い、末だリソゲル注射のみで、病室で苦闘している学生への救援と、日犬闘争支援を浮びかげて、全共闘は新宿と渋谷で街頭カソパ活動を行なった。彼等は、大学当局の犯罪政策を暴露し、既成の学園、騒動というイメージでとらえられ報道されていることを否定して、この闘争の本質を訴え、まさに基本的人権をも剥脱された学生の、不当弾圧を粉砕し、自治権を奪還する闘いとして、必ず勝利するであろうことを杜会的に宣言した。
 六月三日、明日の集会へ向げて、各学部別集会。
 六月四日、闘争は更に新たな段階に突入した。
 この日の集会の目的と戦術は、大学本部への抗議と再び団交要求のため、学生の力で本部を包囲し、会頭を引きずり出し、団交の確約をさせることであった。
 十二時に各学部別決起集会が各学部別闘争委のもとで開かれ、二時には、経済学部前に全学集会が行なわれた。
 この全学総決起集会には、遠く三島文理.郡山工学からの闘かう学生がはせ参じ、実に一万人の集会になった。 ところがここで、経済校舎上方から、ガラスビンが落ちてきて、一人の学生の頭に当り、5セソチの裂傷を負わせた。
 無論学部当局は校舎内を調べることなどしない。
 集会は事実経遇報告の後、当局を糾弾し弾圧を粉砕し団交を要求する闘いの隊列をうち固め、全学共闘会議のもとに最後まで闘うことを誓って本部に対する激しいデモに移った。
 本部を包囲した一万人の学生は、この闘いが単に理事の退陣を要求する闘いのではなく、自治奪還の闘争であり、大衆団交を要求するのはまさに当然の学生の権利であることを確認して、全共闘代表学生二〇名を本部内に派遣した。
 これに先立って、当局は、靖国神社に全日大から1、000人の暴力部隊を集結させていたが、それを解散させ、一部体育系暴力学生と、桜会暴力団員あわせて30名ほどを本部入口にかためた。
 団交要求段をごまかしと言い逃れでしりぞけた本部当局者のおののきは、充分想像できる。
 要求団に対して当局者は、「会頭は不在だから、明後日夕方、秋田議長に電話で回答する」 「全共闘は正当な学生代表ではない」と言うのみだった。
 六月五日、六・四集会での6・11総決起集会の確認にもとずき、この日から各学部毎に、11日へ向けての組織化と討論、集会。12時から、法学部300。経済学部では200人が集会に結集し、うち30人が学生証検査を突破して学内にデモを170人が学内すわり込み集会を開いた。
 その内60名は再び外へ出て、本部ヘデモをかけ、ここで秋田議長は、「ストライキをしてまで闘う」決意を明らかにした。
 3時、全学共闘会議記者会見、於学士会館。
 出席全共闘秋田、水登、今、他0B会議より四名。この会見で共闘会議は、日大の現状と実態を述べ、この闘争の本質、とりわけその運動方針と組織とを明らかにした。そして、11日、最終的に団交要求が拒否されれば、ストライキ突入もやむを得ないと、当面の戦術を明らかにしたのである。
 6月6日 経済学部では、正午から学内地下学生ホールで研究会責任者主催の学生集会を開き、一千名の学生が結集した。この段階ではもはや学部当局は、この集会を黙認(認められた集会、的場指導委員長を呼ぶことも確認されていた)せざるを得ず、個々に活動家達は、当局の言ってきた「話し合い」の幻想を打破すべく、ハリ込んだ。はたしてそこに出席した的場指導委員長、名東教授、橋本学生課長らは「話し合い路線」の原則のみを言うばかりで実質的には何ら学生の質問には応えなかった。
 3時、大講堂で学部長主催の「話し合いの会」が開かれ、ここに1、500人にふくれあがった学生がつめかけた。
 秋田、的場議長が選出された時点で、的場氏は「今まで本部理事がいたのに急に見えなくなった」と発表。
 ここで議長に秋田学生会委員長が選任され、出席した吉田寛学部長以下10人に質問をあびせた。日大当局が、この闘争期間中、この日以後も一見して主張するところは、一切の問題を唯一「二〇億円不正事件」問題にのみかからせ、この会議の場でも「税法上の解釈の相違」 「不明金はなく、マスコミのデッチ上げ」と言い訳をし、さらに「だが責任は痛感するから、機構上の改革はする」 「経理の公開は行う」等を、あたかも根本的改革であるかのように述べる。
 学生側はより根本的な問題、自治活動弾圧の間題についての深部にせまる討論を提起すると、学部長は、 「本部で会議があるから」と中座してしまった。学生達はこの会議で、当局の提起する「話し合い」の意味を知り、それはむしろ怒りに転化した。(本文24P)

 直ちに抗議集会に切りかえ、 「もはや対話は当局によって崩された」こと。
 11日本部抗議デモとスト突入を確認した。
 7時、大学側は、学生会中執(全共闘とは無関係の御用自治会組織)と「学生側との話し合い、と銘打ってポス交。内容は、例のごとく、二〇億円間題に集中し、他に各学部別に話し合い(だがこれでは責任所在が明確にならない)と大学民主化(これは事務機構の上からの改善を意味するのみ)について。
 なお、この日、秋田経済学部学生会委員長以下15名の自宅謹慎処置解除。処分の理由も明らかでなく解除の理由も明らかでないが、ようやく学生の力をおそれた当局が、懐柔のために打った手とみられる。
 だが当局は全共闘を真の学生代表と認めないと公言し、学生会中執を話し合いの窓口にしょうと、必死である。
 6月7日、学生集会を各学部毎で行ない、一部では学内で強行。
 6月8日、ひきつづき各学部別学生討論集会、11日闘争の呼びかげと組織化オルグ。
 6月9日 全共闘、新宿、渋谷各駅頭カソパ活動。
 なお、教職員組合の一職員からの情報で、この頃までに本部当局は、理事、教授をはじめ各教職員にぽらまいたヤミ給与について、各自に領収証を提出させる作業を完了したという。
                 .“
 6月10日 全共闘の確認のもと、経、法両闘争委主催の講演討論集会が経済学部大講堂で開かれた。
 講師丸山邦男氏「学園の自治と現状」。学生2,000人。
 これに先だって、校舎入口で、丸山氏を中に入れるか入れないかで、学生と職員が押し間答。
 なおこの日予定されていた学部長説明会なるものは流れた。
 6月11日 日本大学自治権奪還闘争、それはこれまでの日本大学の政策、機構の全面にわたる犬学本部を中心とする権力と真正面から対決する学生の闘いである。
 この日、大学当局の信じがたい暴挙とそれに抗する日大生の火の如きエネルギーによって、日大自治奪還闘争は、更に新たな段階に突入した。
 この日は、全共闘主催の大衆団交を当局に要求し認めさせる最後的な全学総決起集会であった。
 12時、各学部別決起集会。
 経済学部校舎入口では、学生証検問が朝から行なわれていたが、一部体育系学生を中心とする学生はフリー.パスで中に入っており、更に、12時頃からは、校内放送を通じ校舎内の一般学生を外に出しはじめた。
 2時、経済学部校舎前総決起集会、3,500人。この頃から、経済学部校舎入口では、学生課'・教務課職員が立ちならび中に入ろうとする一般学生を排除しながら、一方では、一部体育系学生と、桜士会会員(古田重二良を名誉会長、加藤修校友会本都相談役を会長とする応援団、体育会、学生会議出身OBによる一部右翼の暴カ帥集団)等々ゆメンバーを中心に招じ入れていた。入口近くにいた数人の学生達はこれに怒り「我々一般学生を排除してなぜ彼等のみ入れるのか」と抗議すると、職員は「自分は知らぬ、上からの命令だ」と発言し、学生がなおも抗議すると、職員達は、ドアを閉め、さらにシャツターを下ろしはじめた。
 この露骨な排除行為に集結した5,000人以上の学生は憤然と立ち上がり、玄関に殺到した。
 下りてくるシャッターを素手と旗竿でおさえ、他の学生達は、口々に「僕達の大学だ」と叫んでドアーをげやぶり、中に突入した。ほぼ150名の先頭部隊が入ったとき、内部にいた300人の右翼暴力集団は、突然、牛乳ビン、コーラのピン、ビールピソ等を投げつげ、木刀をふりあげて殴りかかってきた。
 このため無防傭な学生達の中からは、額を割られるもの、くるぶしの肉をえぐられる者等が続出した。
 さらに、学内の暴力集団は、消火栓からホースを引き、突入しようとする学生に放水しながら、ガラスビソ、鉄バィプ等を投げっげてきた。
 かたわらには、一部の職員達や経済学部指導者達がその模様を見ており、岡孝(桜士会幹事、経済学部校友会室職員、応援団出身)が乱闘服で暴力集団を指揮していたことを、多数の学生が目撃している。
 吉田寛経済学部長はこの日、昼過ぎ頃、暴力団、体育会系学生250名を、地下ホールに集合させ、15分程訓示をたれている。 
「不逞の輩から経済学部を守ってくれる諸君がいると非常に心強い。
 なお、全共闘を中心とする学生が径済学部校舎に突入したとき、学生達はそこに、木刀を振り上げた橋本(経済学部学生課長)、目良(経済職員)、消火栓ホースを学生に向げた柳沼(経済学部学生課職員)等、そして3階および5階から下に投石する守衛達の、信じ難い姿を見たのだった。
 血だらけになってうずくまる学生達で、あたりは地獄絵と化し、騨整鐘緑一たん引いて、本部近く迄陣容をたて直
すぺくデモ行進に移ったが、そのとき、校舎内にたてこもった暴力集団は、デモ隊に対し、ガラスピンを投げつけ、
そのいくり省学若蟹岩熔わ獲i婁箪で病院に運ばれた者20名以上。
 学生たちはいったん本部に集結し、そこで全共闘は、この殺人的暴挙に対する怒りにうちふるえた5,000人の学生に対して、「彼等を絶対に許せない。我々は引きかえして彼等を追いだし、かつ中にいる60名の学友を右翼暴力学生から助げだし経済学部校舎を占拠する」と断固たる決意のもとに方針を提起し、全学生の支持のもとに再び引きかえした。殆んどの学生が経済学部前に、とってかえしたとき突如として校舎4階の窓から、ほぼ10キログラムの重さがある50セソチ4方の鉄製ゴミ箱が投げられ、これがデモ隊の真中に落ち、2名の学生(頭骸骨.肩骨損傷)が重傷さらに、イス、机、酒びん-----本文25P

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