三崎町界隈・古戦場散策
日大闘争古戦場めぐり
1968年930大衆団交会場・日大講堂(旧両国国技館)
総武線両国駅下車・徒歩3分=現国技館の反対側
68‐69年当時の明大学館。
後方は、名曲喫茶「丘」
その隣にやはり名曲喫茶の「田園があった」どちらも日大生ご用達である。
「丘」、「田園」双方とも、街頭斗争などの際、全共斗の前線司令部となった。
(写真は=復刻中大新聞HP<左>・3K社所蔵写真<右>より借用)
2003年、現在の旧明大学館跡
さすらいの全共斗駐屯地であり、1969
年930火炎瓶斗争の激戦地跡でもある。
1968年白山通りの賑わい 三崎町白十字、蜂起前の前線司令部
錦華公園、1968年5月初デモの出発風景 2003年・平和な錦華公園
1968年9月の白山通り、写真 旧みのり食堂、現レストラン 北京亭、健在です
右端中段が「みのり食堂」 「MINORI」2003年
1968年全学集会 2003経済1,2号館
<経済学部本館(左建物) 2号館(右建物)と両館をつなぐ通路橋>
この通路橋は、1968年当時は、バリ封のもっとも手薄な個所であり、ここからの
警察機動隊の侵入が憂慮されていたが、実際には、機動隊一番手は、最も攻め
やすいここから侵入してこなかった。
警視庁の威信にかけてだろう=もっとも攻めにくい場所からなだれ込んできた。
こんなところも、警官の犠牲者を出してしまった、日本国家の官僚主義のなせる
わざだったのかも…
殉職された警察官の方には、心より哀悼の念をささげるものです.。
裁判記録には「当日の攻めにくい危険な隘路に侵入した際、指揮官の現場判断
の誤りで、事故を予測できたにもかかわらず、部下を突入させてしまったと」いう
供述が、無用の犠牲者を出してしまった最大の原因である。と、当時の公判記録
には記述されている.
2003御茶ノ水駅
理工本館=1号館(S・3年) 理工学部1号館、2003年新築された。
1968-9-8 素手で機動隊を追いつめる日大生
神保町書泉、1968年9月、経法奪還闘争の激戦地
悲鳴をあげてまさに瓦解、壊走寸前の機動隊 2003
この直後、彼らは悲鳴をあげて装備を投げ出してばらばらになって逃げ出した。
写真の部隊は「鬼の4機」と謡われた警視庁最強の第4機動隊である。
(現場目撃者の証言)