夕暮れわれ、水をながむるに、流れよるオフェーリヤはなきか。
         夕暮れの時はよい時・・・・・そは、限りなきよき時・・・・・(堀口大學)



 「なつかしい硝煙のにおい、それはお前の匂いだ」


  夕暮れ時、事務所の片隅で、静かに目を閉じるとき、その光景が、はっきりと浮かび上がってくる。
はるか昔に行ってしまった懐かしい時代
思い出そうとしても思い出せない
何故だろう・・・・・
忘れようとして,その日,決意して,深海の泥の中の貝殻のように口をつぐんだ日,その日以来,三十数年が経過してしまった

深夜、キーボードに向かい、全共闘と打ったとき,画面に現出するものがある.。
日大全共闘の文字である.。
それも一つや二つではない
いつの間に……
夢ではなかった
全共闘は、わたしの日大全共闘は、実在したのだ
茫洋とした,意識の中に,あるいは,幻影なのかと、自らの中におぼろげに存在していたものが,確かにあった
その確信は、こうである
存在を信じれば,それは,存在すると言うことである
今,私は,天なるものに感謝する
天なる、あなたのお導きによって,あの激しい戦い,正義の戦いの中に身を置けたということを・・・・
そして,今,再び,それにめぐりあったことに感謝します
この上は----
たとえ、思いの幾分の一であろうとも、自ら経験したことを,歴史に刻みつけたいと思う。

1968年初夏・・・・・・・・・・・・

長い苦渋の時を経て,私たちの闘いは始まった.
それは,絶望的なあがきの中から始まった.
ある時、恐ろしげな姿をした何者(物)かが、闇の中で私の前に立ち「決起せよ」と告げた。
この者(物)は人ではなかった。
何者(物)かは、今でもわからぬ.。
ともあれ、私はその声なき声の主に背を押されるようにして、決起の隊列へと飛び込んだ。
「魔物」あるいは「天なる者」どちらかは分からない。
正体不明のその者(物)がこの身を、召命したからである。

陰謀をなした場所は、寺院であった.
場所は,三田の寺院、そこに男女ともに雑魚寝していく晩も過ごした。
夜っぴて、討論と翌日の作業に忙殺されて、いく晩もすごした。
朝しらける頃に,寝につき,すぐに起きた.
国電に乗り,神田へ…
スピーカーを肩に,材木屋に預けた大型のタテカンをかついで、学部前に到着すると同時に大声で怒鳴り始める.
正門のシャッターは閉じられ,2階のベランダには,恰幅のよい男たちが出揃って,ヤジを飛ばす.だが,私たちのスピーカーのほうが,音量では勝っていた.
数えることのできる少数の学生が,やがて数え切れぬ人数に膨れ上がるのは、時間の問題であった。
聴衆の数が増えるたびに小さなスピーカーでは間に合わない。
秋葉に走って、次々とスピーカーを変えた。
ついには、でかいアンプとバッテリー付の大型スピーカーでなければ声が届かないほどの大人数に膨れ上がっていった。

その大音響に恐れを成したのか、集会のど真ん中に黒服の体育系学生の集団が襲いかかった。
大学当局の命令一下の特攻隊であった。
狙うは、学生側の大型の携帯用のラウドスピーカーである。
この白昼のテロで、隠し持った刃物で切られ、奪われたスピーカーを脳天にくらい、頭を割られた者もいた。
毎日毎日が,その繰り返しであった。
経済1号館と2号館の間の通路上のことであった。
やがてそこは,身動きできぬほどの人であふれかえった.
1968年5月、全共闘の結成宣言のあった頃である。

激しいデモが終わった.。1968年5月

 その後、体には,心地よい疲労と汗がにじみ出る.
 5月のさわやかな風が、実に心地よい.
集会の解散とともに,一人隊列を離れて,錦華公園を出て神保町の交差点に向かう。
ひとしきりフラフラして,町をさまよい、仲間のいるセントルイスに戻る.
今日の宿泊は,後楽園前の木賃宿だ.
家には帰れぬ.
明日はもう6月だ.・・・・
全学部共闘会議を結成しては見たが,どうなるのかの展望は全く無い。
それは日大全共斗と名を変えたあとも同様であった。
もう,これ以後の人生はあきらめた.
人並みの就職も人間関係も築くことは無いだろう.
一人で,生きるしかない.
お利口な世間とは,永遠におさらばだ・
徹底したバカに,そして破滅を恐れぬ,過激派に成っていけるのだろうか.
もとより,奈落への墜落は,覚悟の上である。
・・・・・下高井戸へ向かう路上で思った。

迷ったすえに、たどり着いた結論

1967年の晩秋・・・・
迷いに迷ったすえ、私は、大川(隅田川)のコンクリートの堤防に昇った。
絶え間なく流れる、夜の黒い水面を眺めた。
いくら眺めていても、結論は出なかった。
天を振り仰いで、待ったが、天からの声はなかった。
そうか、この上は、何があろうとも、この私の判断が正しいのだ。
確信はなかったが、ともあれ家に帰った。
翌日から正体不明の熱に、臥せった。
その次の日も熱は収まらない。
熱は4日間続いた。
その夢の中で、何ものかがささやいた。
「なぜお前は執着するのか?」と・・・・
「あきらめろ」と・・・・
あきらめろだと?なにを・・・・
そう、お前なんか、この世に存在しなかったと思え。
そうすれば、あきらめることができる。
金輪際、就職もできぬ、結婚もできぬ、一人で生きていく以外にない。
<自らの意思で決起するとき、前科者となって、社会のつまはじきにされて生きていくしかない。もう、未来はないのだ。>
そうして、私は、この瞬間にすべてをあきらめた。

翌日の朝、目覚めると高熱は、うそのように引いていた。
そのまま、学生服を着用しあえて徒歩で登校した。
仲間は、何事もなかったように迎えてくれた。
直後、最悪の事態=学生会室襲撃事件が起こった。
もう動揺はなかった。恐怖もなかった。
あとは、決起の途を突き進むだけである。
「おまえなんか、この世に存在しなかったのだ、と思え・・・・・あきらめよ・・・・・」と。
幾度も幾度も言い聞かせた。
意思とは、うらはらに体が自然と破滅への道へと動いていく。
だが、内心では、いく道の向こうに確信がはっきりと見えていた。
これは、正義の道なのだ、と・・・・・・
このたった一つの道以外、選択肢はなかったからだ。

その後は

それから、10年余、結婚もした、企業社会のリーダー的立場にも立った。
その昔あきらめた人生がすべて戻ってきた。
過激に行動することが人生の落伍者になるという思い込みは、うそだった。
たった一つ、当たったことは、普通のサラリーマンになれなかったことだ。
あとは、想定した人生の凋落の予想が、全部外れたことだ。
その昔、この身を召命したものに感謝しよう。
あの時彼の召命に従わず、決起の行為をしなかったなら、今はなかったかもしれない。
そう、今のこの晴れやかな気分はなかったに違いない。

あの厳しい戦いをやりぬいたという自負こそ、以後の人生を支えるものとなった。
苦しいとき、破滅の淵に追い詰められたとき、いつも思い出した。
「あの時は、こんなもんではなかった。あれにくらべれば、今なんか・・・・」と、
そして歯を食いしばる。
突っ張ったあとは、よい結果が出た。
何も考えずに、ひたすらわが道を行くほうがよい結果となったのは不思議なことだが、当然といえば当然の事だ。
人はとかく忘れがちである。
「初心忘るべからず」の諺とともに、わが身を処することにしよう。

この身を・・・この命を・・・召命するものあらばいつでも応じよう。

立替え前の大学校舎にて

管理人殿、何者にも干渉されず、ただ書きたいのです。

      「月 夜」
      月の光の照る辻(つじ)に
        ピエロさびしく立ちにけり
      ピエロの姿(すがた)白ければ
        月の光に濡れにけり
      あたりしみじみ見まわせど
        コロンビイヌの影もなし
            あまりに事のかなしさに
               ピエロは涙ながしけり(堀口大學)

上記の言葉は、尊敬する堀口大學師の言葉です。当時も今も私の心を支配してやみません。
師とは、彼の死の1年前、師の受勲の祝賀会で、固い握手をしたときが永の別れとなりました。
決意をこめて、何度もこの言葉を口ずさみました。
苦しい闘いが終わったとき、この詩が頭をよぎりました。
いもやで天丼を食い、再び、闘いに望まんとするときに、いつもいつもこの言葉が、呼びかけてきました。
その当時私には空を眺め、月の影(月光)を振り仰ぐ余裕はありませんでしたが、いつもこのイメージが私を支配していました。
即ち「この戦いを終えた時、全精力を使い果して、私は、孤独とともに悔恨の時を迎えるだろう」と・・・・・・・・
だが、現実はそれほど厳しくはなかった。
前述の如く、すべてのことが、その後戻ってきたからだ。
一つだけ、悟ったことがある。
それは、自らが、そうありたいと望めば、そのとおりになるのだ、という事を・・・・・・
それらのすべてを日大闘争から学んだように思う。




マロニエ通り 2004/03/06

その坂のある通りは、当時からマロニエ通りと呼ばれていた。
なぜそう呼ばれていたかは、今もわからない。
当時、学部の学生の間では、「マロニエは恋の木」と言い伝えられていた。
マロニエの木というのが実際にあるのだろうか。
現在もそこを通るたびに思うのだが、わからない。
その坂を登って、お茶の水駅に至る一筋の道=当時はヘルメットの軍団が激しい斗いのあとに、そぞろに行き来する道でもあった。
水道橋=経・法学部と御茶ノ水=理工学部、そして中央大学を行き来し、またすぐ裏には明大学館のあった通りである。
2004年現在、坂の途上にある標識には「さいかち坂」とある。

その坂の上のサテンで、仲間とながの別れをした。
彼らは言った「この別れが人生の敗北だとは思うなよ。君は、君の道を行くのだ。いつかまた会おう・・・・」と。
彼らは、日大斗争を私の分まで引き受けてくれた。
そうして私を送り出してくれた。
彼らの親切には感謝するが「なじられるだろうな」と思った私の中には、釈然とせぬあるわだかまりが残った。
なぜこいつらは、今、独り、戦線離脱しようとするこの俺にこんなにやさしく接することができるのだろうか?と・・・・
これは、あとを引いた。
1969年初夏のことである。
私は、その直後、ある田舎の地方都市に赴いた。
四方を田んぼに囲まれた、辺境の地である。


戻ってきた酔っ払い

どうしてもふにおちない。
毎夜を経るたびに、内部にポッカリ空いた空洞に何者かが忍び寄る。
そこで考えた。「はじめから、もう一度やろう」と・・・
田舎町で一人で道路に出た。
仲間はいないか?
スナックが一軒と、本屋が1件、ホルモン屋が2件、たこ焼き屋台が1件という田舎町のことだ。
応えるものがいるはずがない。
やむなく、会社の工場で言い放った。
反戦運動に参加しないか?我々の組合を作らないか?と・・・・
応じたのは、パートのおばちゃんだった。
賛成です。まず仲間を集めましょう。
おばちゃんは、快く引き受けてくれた。
ある日地区の共産党のボスから電話が入った。
くだんのおばちゃんが自らのボスに通報したのだ。
彼女は共産党員だったのだ。
「君は、全共闘だそうだが、会いたいのでご足労願いまいか?」
訪問すると患者を見ていた手を休めて応接室に招かれた。
この論争が、私を地区反戦の結成に踏み切らせた決定的な出会いとなった。
彼は言う「トロツキストの活動はこの八尾地区では認めない」
論争すること数刻、堂々巡りの乱戦となった。

カンカンと踏み切りの音が鳴りひびく。夕暮れの田舎町を、さまよう時・・・



彼は激しい口調で私を弾劾した。
我々は、吹田事件で激しく戦ったのだ、と・・・・
君達の比ではない、と・・・・
「先生はそのとき火炎瓶を投げたのですか?報道では、そう聞いていますが・・・」
「そのとおりだ。まさに火炎瓶闘争をしたのだ」
「そうであるなら、私たちも同様です。どうしてその同じ戦いをもって、共闘できないのでしょうか?いっしょにやりましょう。この地域で・・・・」
「???・・・・・・・・」
「ところで君は全共闘といったが、どこの全共闘なのか?阪大か?それとも京大か?大阪市大か?」
「ニチダイです」
「え?ニチダイ?・・・・日大全共闘の事か?」
「そうです」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
饒舌に私を弾劾していた彼は突然に黙り込み、しばらく下を向いて床を見つめていた。

「日大、か・・・・」
彼はそう小声でつぶやくと、こちらに向き直って、まっすぐに眼を向けて言った。
「私にはもう君を説得することはできない、この地区の責任者を紹介するから共闘の件は彼に話してもらいたい。」と,、穏やかに言った・・・・
先程までの激しい口調は消えていた。

近鉄八尾駅前に事務所を構えるある議員のところに連絡したが、いつも不在という。
彼とはついに会うことはなかった。
この議論は、さる地方都市の貴○病院の院長室でのことであった。




1969年10月、京都で10万人集会と呼ばれる反戦集会が催された。
円山公園の会場には人があふれかえっていた。
そこで不思議なものを見た。ライトブルーのヘルメットの集団である。
日大全共斗か?
近づいてみたが見知った顔は無い。
その中の一人に声をかけた。
彼は言う、「我々は、全員労働者であり、学生は一人もいない」…と。
学生じゃーないって-ーー??? どういう事だ?
学生でない生活のかかった者がどうしてこのような闘いをできるのか?自分にとって不思議だった。
この時、自らを学生運動=日大斗争に限定していた自分の中で何物かが崩れた。
いついかなる所でも、どのような立場でも、俺は人間であるのだ。
そうであるなら、人として、成すべき事をなさねばならない。


それから数日後、私のいた会社の寮に一組の男女が現れた。
WKと表利清子(故人)である。
私は即座に彼ら=東大阪地区反戦に参加することを決めた。
だが私は東大阪(近鉄側)から離れた国鉄側の八尾にいる。
この八尾に地区反戦を作らなければならない・・・・
自分のいる場所から決起するのだ。
かつての日大闘争でも自分のいるその場所=研究会から決起したように・・・・
そのすぐ後、自らの生活拠点を会社の寮のある志紀駅から一駅はなれた国鉄八尾駅近くの文化住宅に移した。
八尾市陽光園・米田文化住宅である。ここは同和地区のど真ん中にあるアパートだった。
すぐそばに八尾の部落解放同盟の解放会館があった。
10分ほど歩いたところに、のちに八尾地区反戦の活動家の拠点になる八尾市役所がある。
光園・・・・・なんと心地よい響きの街の名である事か。私は満足した。





ふるさとはと遠きに在りて思うもの・・・そして悲しく歌うもの

共産党の二人の偉い先生方に地区をパージされた後、頭に血が上って、仕事を終えて町にふらりと出て,工場や役所、駅頭や街路をさ迷い歩くように回り,集会に導いた。
見る見る人数がふくれあがっていった。
不思議な時代であった。
見知らぬ、よそ者の呼びかけに保守的な田舎町の地元の人たちが集まってくる。
ほとんどがいわゆる労働者である。
背広組もいたが,ほとんどが作業服組であった。
こうして地方都市の田舎町で地区反戦をつくる事ができた。
反戦の為の、八尾基地撤去闘争(自衛隊)を地域で組織した。



大都市周辺の各地区の無党派の労働者地区反戦と大合同し、いよいよ東京へ,進撃だ。
全大阪五地区反戦共闘である。
1969年の11月闘争が首都で行われる直前だった。
「間に合った・・・」
そして大勢の仲間達と,日比谷を出発し,蒲田へと道一杯のデモで向かった。
翌日,当時、某(法政)大学に駐屯していた日大全共闘の彼らの元に向かった。
はたして彼らと再会できるか・・・・
だがその一人は,獄中だった。


無意識的=共同性とは?

闘争とは,過酷なものだ。
その中で,「死ぬときはともに死のう」と語らった親友を永遠に引き裂いてしまう。
時を取り戻すことはできない。
その以前はどうあれ、決起の輝きの時間は,わずか1年余であった。
68-69日大闘争のことだ。
(第一次)日大全共闘の炎の時代である。
それ以前にも、それ以後にも、各々の闘いがあった。
とりわけ(第二次)日大全共闘の戦いは、特筆に価する。
この闘いに私たちは,労働者として,隊列をともにすることになる。
無論,恒常的共闘関係などは無い。
東京に行った際,カンパ用具を貸し借りするという以外にはなにも関係は無い。
時に,隊列をともにするというそれだけの事であった。
共通なのは,ともにライトブルーのヘルをかぶっていたくらいである。
新宿広場での事、三里塚現地の事などである。
その中で,三里塚東峰十字路での戦いは特に印象が深い。
だが、闘いには大勝利したが、3名の警官側の犠牲者を出した悲惨なこの闘争の事をいまだ書く気にはなれない。
かつての我々の戦い(日大闘争)でも警官の犠牲者を出したことがあった。
その時には,身動きの取れない隘路で,機動隊の無能な指揮官が無謀な突入命令を発したことが原因だったが、三里塚では,真正面から挑んだ戦いであった。
記述はここまでにしよう。いまだ、この時の事が整理できないでいるので・・・・

記憶は再び日大に戻る。
私たちの闘いはいつが起源だったのだろうか、と・・・・
連綿とする闘い、おびただしい犠牲者達、私たちは,彼らのことを忘れてはならない・・・
彼らはけして死んだわけではないが、深く傷つき去っていったのは確かである。



すべては,虚構あるいは幻想だったのか?


再び日大を語る前に、30数年ぶりに出会った反戦活動家の会合の模様を語ろうと思う.
一人は,某地区反戦のキャップ、一人は,その反戦連合の代表、一人はもう一つの地区反戦の結成立ち上げのメンバー,もう一人の小生は,また違う地区の結成当事者であった.
言葉すくなに語る会合は、けして血気にはやるものではなかった.
また,何ら現代性を語るものでもなかった.
その中で,我々がいかに「同床異夢」であったのかがわかった.
当時、無党派を主張した彼らは,「革命」を標榜する左翼の輩だったようだ.
「革命のためには何でも許されると言う時代だった」と・・・・
私には当時もその前にも革命なんて概念はなかったから…
私一人が,単純に反戦の為、やったということが今わかってしまったのだ.
一人カラ回りするピエロである.
今後ともこのような空回りが続くだろう.
だが,救いはあった.
当時集まった大衆の中の大多数のものが,私のようにノンセクト=ノンポリの輩だったという証言がこの会合でのたった一つの収穫だった。
一人は言う,もはや私が東京に来て,みんなと語ることは無いと思い,今日この会を呼びかけたのだ,と・・・・
私は再び,生死をともにしようとした仲間との永遠の別れをしたのだと思う.
人生は,出会いと別れの連続なのだということを肝に銘じ,今のこの生を見つめ,一期一会の瞬間,その出会いを大切にしたいと思う。

機会は,一度しかない

それを肝に銘じよう.
それを逃したら,二度と戻ってこないのだということを肝に銘じよう.
次は,日大闘争の記述に戻ります.

日大闘争とは

バラバラに決起した。
その矛盾が,全学部に拡散していたからだ.
てんでバラバラに勝手に決起して,まるで競うように集中していった.
自然、一箇所に集まった.目的が一つだったからだ.
学園民主化であった.
こんな簡単なスローガンが通らぬ大学だった.

クラブで何かやろうとすると,すぐに学生課から呼び出しがあった。
言い訳にキュウキュウとして,やっと許可をもらうのだ.
学生会があったが,何をしているのやら、わからない。
穏健なメガネの委員長だ.
彼を見直したのは,学園祭のときの事である.
一つ一つの研究会.我々のクラブにまで言ってきたときのことだ.
一致して,学生のための要求をしよう.ついては芝進斗争というスローガンを掲げてほしいのだが・・・・と・・・・
「おお.ついにやるのか?」と、さっそくスローガンを掲げた.
徹夜の当局との交渉にも残った.
苦労した展示物の発表がパーになってはたまらない.
クラブのコケンにかかわることである.
我々は,粘りに粘った.
大学祭は執行部の妥協でからくも、実施された。
だが芝進の掲示は一個もはずすことはなかった。
妙な掲示物の林立する大学祭を、一般見学者の父兄達は,どう感じたのだろうか。
古賀執行部の時代の事である.

いにしえの時、その回顧

1966年のこの闘争=三崎祭芝進闘争はワクワクするようなスリルを我々に与えて終わった。
個別研究会の活動の中で当局に抑圧されて,たまったウサを一挙に晴らしたような気になったものだ.
それ以前のある日,1階壁面に,私個人の名前が掲示された.
「XXX研究会責任者、XXXX君、至急学生課まで出頭されたし」
びっくりして、血相を変えて直ちに学部学生課に出頭した.
H学生課長が私の顔を覗き込むように見ながら言った.
「君たちは<歌声の集い>とか言うのをやっているが、君は,民青と言うのを知っているかね?」
「ハ?ミンセイって何ですか?」
「民青を知らないのか」
「知りません」
「そうか知らないのか,もう、帰っていいよ」
「・・・・・・・・」
帰ってクラブの先輩に聞いた.
「ミンセイかと学生課に呼び出されて聞かれたが,わからないのでわからないといったが、先輩、ミンセイってなんですか?」
「何だ,知らないのか、民青とは共産党の事だよ。」
「え?共産党ですか。知らなかった・・・・」
これが当時の学部ノンポリ研究会の責任者のレベルだった.
クラブオンリー.政治音痴と言うところだ。
だが,政治音痴でも,このような学部からの抑圧支配には,嫌な思いをたびたびさせられている.
活動の許可を取るのにいちいち、面倒な許可申請をして,不許可になることも日常茶飯事だったからだ.
百数十名いるクラブ員にいちいち連絡しなければならないからだ.
学部のクラブ員は,十数人だったが,全日大のクラブの為の,教室使用許可を取っていたからだ。
許可申請には,罫紙と呼ばれる公文書用紙を文房具屋で買って、それに記入の上、印鑑まで押さねばならない.
出せばいいというものではない.
出しても不許可の場合がたびたびだ.
ある時など、これは,かなりあとの事だが,許可が下りて大講堂を使用しようとした時だ.
すでに使用していた団体がある。

「日大学生会議」と言う地味な名称の団体だった.
「学生会議だか何だか知らねーが,ふざけんじゃーねー。文句言ってくる」
クラブの会員にそう言い放って会場へ赴き,その集会の責任者を呼んだ,
出てきたのは,普段見知った顔,あの応援団の怪物=N川団長だった.
「・・・・・・・・・・」絶句・・・・
思わず足が震えた.だがひるむ訳には行かない.
思い切り見栄を張って正面から抗議した.
もちろん、こちらの足の震えは止まらない.

その時,怪物に震え上がっていたが・・・・

話が前後したが,この時は,たしか1967年夏の終わりだった。
N川は,バカにしたような目でこちらを見て言った.
「まー,また来てくれや。そのうち終わるだろうからな」
30分後言われたとおりまたノコノコ出かけていった.
今度は,学生課に確かめてある.彼らの使用時間はとうに過ぎている.
「時間は過ぎている,早くこちらに明渡してくれ。今日は我々にとって大事な日だ.この大講堂の外には,全学部から集まった350人の学生が待機している」と・・・
N川の態度が変わった.こちらの学生服の襟のクラブバッチを見ている.集団暴力を成す者の本能だろうか,350名が待機。と言うことを聞いてか聞かずか.急にニコニコとした表情になり,
「XX君だったな.もう少し待ってくれ,君は知らないだろうが,実は今日の事は,本部も承知してるんだよ」
「本部は関係ねーだろー。こっちは,今学生課に確かめてきたとこだよ。ふざけんじゃーね-よ」
どちらが右翼かわからない.こちらは相当にイライラしていた.
数ヶ月前,67年度藤原執行部を暴力でもって放逐した当の本人であることも忘れて怒鳴っていた.内心はヒヤヒヤものであったが・・・・
その集会が終わるか終わらぬうちに我々は,大講堂に平和的になだれ込んだのは言うまでもない。
この緊張関係のおかげで、ゲネラル・プローベ=本番前の総練習は,時間圧縮もあいまって,真剣そのものといった感じで,だれることなく終了した。
その後の本番も大成功に終わったことは言うまでもない。


テメーラより数は多いぜ。ふざけるんじゃねー

以来N川は、当方に一目おくようになったようだ。
そのことがあった数週間後、かの応援団団長と、エレベータの中で鉢合わせした。
双方とも後輩を連れていた。
こちらは、具合の悪いことに、学生服のボタンをすべて外して、おまけに素足に禁止の下駄履きだった。
N川は、当方を見て後輩の部下に言った。
「おい、○○君、学生服のボタンは、きちんとしまっているか?」と・・・
当方へのあてつけだった。
こちらも我が後輩に向かって言った。
「おい、XX君、身なりがいいからと言って、いい学生とは限らないよな」と・・・
数十秒にらみ合いが続いた。
やがてエレベーターは最上階の部室の階に着いた。
何事も無かったように全員が同じ階で降りた。
それだけの事である。
だが、今度は、足が震えるなんて事は無かった。
(応援団だかなんだかしらねーが、ふざけんじゃーねー、こちとら、てめーらより数の多い会員を従えてるんだよ)と・・・・
同じ集団行動が原則の右翼的なクラブの責任者としての自信に満ち溢れていた時期の事でありました。


よく調べてみたら・・・(イヤー、ぞっとしたねー)

日大学生会議と言う団体ができたのは,1967年10月だそうだ。
とすると前述した、経済学部大講堂でWブッキングの日は,67年10月のある日,と言う事だ。
本番は通常晩秋だから、その直前のゲネプロ日は,ちょうど10月頃となる。
歴史の偶然である。
我々は日大闘争史上はじめて,この巨大な暴力集団=日大学生会議と心ならずも正面からぶつかった集団となった。
実に光栄な事である。


あまりに事の不条理に、語る言葉も無かった。


集団暴力の被害者(経済学部学生会執行部)のほうが処分を受けた!!信じられぬ事態が起こった!


あの悪名高い420事件(1967年)、いやその前の1月下旬の経済4階の49番教室での暴力事件以来,自分は,目の前の暴力と不正に我慢の尾が切れてしまったのだ。
集団暴力の凄まじさは,本当にショックだった。
一斉に起る怒号と汚いヤジ,演壇に殺到する黒服の集団。
学生会の奴らがなに悪い事をしたのだ。
悪いのは野球の応援で,他大の応援団に殴りこんで,その暴力行為が何度も新聞沙汰になった,お前ら応援団じゃないか。
学生会は,それを糾弾しただけじゃないか。
心中怒りに震えながらも、自分は,その一部始終を見ていただけだった。声も上げられない。
心底,恐怖に縮みあがっていたのだ。
事が終わった後,自分はボウ然として,クラブの部室に戻り,たった一人で,電気もつけずに座り込んでいた。
一体何が起こったんだろう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
たった今、目撃した事が,どう考えても本当の事とは思われないのだった。
何故だ・・・・・・・・・・・
その後しばらく自分は、クラブ活動での後輩の指導時にもそのことが頭を離れないでいた。
だが,ついにあの暴力事件のことは誰にも言うことはなかった。

お祭り騒ぎは,日大経済学部の「プラハの春」の前段だった。

一般学生を集めてのクラブのイベントの時、集会場にいる学生たちにあの忌まわしい4・20事件の真実を喋りだそうかという衝動を何度抑えた事か。
月2回の、そのイベントの司会をしながら思った。
マイクを握って「この同じ49番講堂で,かつてない暴力事件がおこなわれたのだ、その首謀者は,日大当局と応援団=体連の奴らなのだ」と・・・・
だが、ついにそれを実行する事は無かった。
自分は,イベント会場の設営をあの暴力事件の現場である49番講堂にこだわった。
毎回,頭に血が逆流し,泡たつのを覚えた。
そして,全共闘が決起したあとも、クラブの闘争委員会室をこの49番講堂に置いたのだ。
自分は,初めから最後まで,ここ(49講堂)に執着した。
ここは校舎のはずれに当たる。
主要な闘委の部屋は,2階の教授会室と3階の学生会室を中心とした,1・2・3階にあった。
4階の北側のはずれにある闘委室は我がクラブだけであった。
20名前後のメンバーが交代で宿泊していた。
後に聞いたあるメンバーの話によると,このクラブのイベントに一般生として,参加して,後にクラブに入会して,決起後,闘争委の宿泊メンバーとなったものもいた。
我がクラブのお遊びのイベントも,ある意味では学園民主化闘争という厳しい戦いの中で,幾分かのお役に立ったのかもしれない。
決起前の暗い学部内でのお祭り騒ぎのささやかな出来事であった。



クラブの最後の活動を終える日が来た。
S42年(1967年)最終イベントの日。
この日はクリスマス特集を組んだ。
自分にとって,お遊びのイベントもこれが最後である。
あとの事は,後輩の責任者W君に託すのみである。
オール日大(約120名),そして、全学部連合組織実行委員会(約350名)を彼にゆだね、自分はこれを機にクラブ活動を離れなければならない。
一個人学生として,1968年度経済学部学生会執行部に参列したからだ。
これより先は,命がけの闘いをしていかねばならぬ。
お遊びとはおさらばだ。
覚悟はできていた。前夜ご先祖のいます仏壇に手を合わせて祈った。
天にひたすら祈った。
とはいえ自分は,宗教者ではない。
身を捨つるに足るものを求めたに過ぎない。
そうしなければ、決死の覚悟ができなかったからだ。

やられたらやり返す・・・・それは空回りからはじめられた。(日大全共斗魂の胎動)

決死の覚悟をしたこの時、死に対するおそれは消失した。
現実があまりに多忙だったからだ。
人は、多忙ゆえに恐れを忘却する事ができる。
怒りゆえに恐れを忘却する事ができる。
たった一つのこの道を、この正義の道を歩む時、もはや目の前の障壁はない。
行動者にとって「決死」と「正義」が必要だったからだ。
正義とは必ずしも敵味方、双方にとっての正義ではない。
だが、一片の正義は当方にある。
それは仇打ちだったかもしれない。
過去、暴力によって粉々に粉砕され、学園から放逐された先輩たちの為の日大当局への報復でもある。

さてはじめに何を為すべきか。
校舎の隅々まで回って、問題点を探した。
新校舎は、とても殺風景だった。
まず、この大学が誰の物かという議論が行われた。
「見てみろよ。たとえばこの教職員以外使用禁止というエレベーターだが、この大学は我々学生の授業料によって成り立っている。とすれば、我々学生がこの大学の主体である。主体である我々学生がなぜこのエレベーターを使ってはいけないのか。まずこのエルベータ-を使うことからはじめよう」、Aが言った。
そして毎日毎回これを使用したが、誰も文句を言うものがいない。
教職員は誰も見てみぬ振りだ。
最初の主観的戦いは、空振りだった。
だが闘いとは、このような自己満足的な、取るに足らぬところから始まるのかも知れない。
かつて、高杉晋作らが、師=吉田松陰の遺体を弔うに当たって、その復讐戦を開始する時、将軍しか渡れぬ禁忌の橋を師の遺体とともに渡った故事がそれを想起させる物であったのかもしれない。
このときも誰も文句を言う者がなかった、と聞いている。
その故事に倣ったわけではない。だが、今だから言うが、彼らと同じことをしたのだと思う。
これも歴史の偶然かもしれないが・・・・

次にやったことは、当時の最良の知性の代表たる東大の日高六郎教授を日大に招き、経済学部新入生移行生歓迎大会で講演願うことだった.。
だが、またしても日大当局は、これを拒否し、不許可とした。
この事件では、全学から集められた右翼体連や応援団の者ども・大学職員が、経済校舎を占拠し、徹底的に大会の開催を妨害し、学生が校舎を使用するのを暴力を用いて物理的に阻止したのだった。

        完 2004-5-17

1968年9月30日HPBBSに掲載のものを転載.

       日大全共闘経闘委 全大阪五地区反戦共闘・東大阪ー八尾地区反戦
                                 信貴山にて  生駒志紀男

      戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長谷部清子児島清子hasebekiyoko

 

 

 

 

 

inserted by FC2 system