農斗委的日大闘争  by ウオマサル

ペンキ闘争の件。 水産学科闘争委員会行動隊  

かつて、69/70年ごろ、日大アウシュビュッ体制に対して、我ら水産学科闘争委員会は、ビラ貼り/道路への落書き攻勢に出ました。道路には、100パーセント、『日大解放』と、書き込みました。ただし、三軒茶屋周辺のみでした。それでも、参加者は、30名を越えていた。私は、この闘争で、10回以上捕まえられたが、『軽犯罪法違反』ということで、『逃亡しない宣言』/住所・氏名を告知(うそでも、かまわない。)をしたぐらいで釈放された。最後のほうでは、お回りが、メモも取らなかった。裁判勝ちますよ。きっと!

杉並区立桃井第二小学校は名門だ。 

杉並区立桃井第二小学校は名門だ。確かに、東大進学者は、都内有数である。校歌は、与謝野晶子作詞。金持ちの子弟が数多く通っている。だが、そんなことが名門のいわれではない。昭和39年3月卒業、6年5組。このクラスから、三名の日大全共闘戦士を輩出している。クラスからは、日大生は、この3名のみ。100%全共闘であった。当時の同級生達は、事有るごとに、我々を励ましてくれた。また、多くの同級生もさまざまな戦いの渦中に突入していった。多くの先輩と共に。小学校時代、近くに『一本松』と呼ばれる空き地があった。巨大な一本の松が聳え立っていた。この広場で一番多かった遊びは、『戦争ごっこ』。まさか数年後、一番楽しいはずの青春時代、官憲相手に戦争するとは思ってもいなかった。

某杉並区内の付属高校での話し。

1968年2月。

生徒総会案件として、暴力の塊『応援団』解体決議案を、3年I組が満場一致で可決。
総会当日、議決案とクラス委員が消えた。学友たちは追求の為、担任に迫るが、とぼけるだけ。この日からが、『私の、日大闘争』が始まった。
*我ら、農獣医学部水産学科闘争委員会の総括。【1972年3月、最後の水闘委】
『われわれは、母校の自由と、日本の正義のために戦った。』

1968年6月10日

授業中の教室に一枚のビラが回ってきました。【明日、経済学部で何かやるみたい。】翌6月11日、仲良し3人組はとりあえず見学。他の学部じゃこんなにすごいんだ!つずいて、あの惨劇。(HP参照)怒りに震え、学部にかえる。皆に知らせよう!そうだ、放送しよう。放送室占拠だ。守衛の制止を振り切り、事務等棟に突入。しかし、中には、怖ーーいお兄さんたちがいっぱい。脱兎のごとく逃げ去った。
外から学食へ。いきなり、報告集会が始まった。話が進むにつれて、学友達の数は増えつずけた。ガードマン介入。やむなく解散。
6月12日、以前から運動に加わっていた学友と共に、授業中の教室を占拠。クラス集会を強行。1年だけではあるが、水産学科闘争委員会を発足。決起を決議した。先生!はーーい。

催涙弾のお話

水平射ち、読んで字の如し。水平に打ちます。しかも顔面めがけて。本来、催涙弾は、暴徒の戦意喪失を目的とした。その弾道は、放物線状であり,暴徒の頭上で炸裂するように設定。
いつごろからそうなつたかは記憶に無い。1968年1月18日、神田カルチェラタン闘争。あの日、お茶の水にやって来た機動隊は、メチヤクチャに弱かった。学生の勝ち鬨(シュプレキコール)に恐怖した彼らは、脱兎のごとく退却。彼らの去った後、ジュラルミンの盾/防石ネット/警棒/催涙銃、果てはヘルメットまで、山積みで残されていた。第二波、最前列に、4/5丁の催涙銃。攻撃は、敵から始まった。催涙弾の一斉水平射撃。顔面を狙ってきた。私のとこれえも、一発。ゲバ棒に命中。

真正面から顔面に向ってガス弾を撃たれた経験者は手を上げて…、おらんじゃろう。」》
先生!ハーイ。一日最高3発。1969年1月18日、AM。はじめの1発。大久保彦左衛門住居跡の石碑を背景に、陣を張る。敵は、ジブリのアニメ見たいに大盾の列を、右から左へ展開していた。誰かが投石。盾にあたり、がーーん。お返しに、催涙弾1発。
こともあろうに、私に向かって飛んできた。弾頭は寸分の狂いもなく、尻は駒のごとく、ぐるぐると回り、お前が血祭りだと言わんがばかりに、真直ぐに飛んできた。まるで、スローモーション。体は動かない、ただゲバ棒を握り締めていただけだった。カキーン。玉はゲバ棒に命中。そのまま突撃。田舎の機動隊を、蹴散らした。
2発目、場所は記憶にない。あと5・6歩で、敵の最前列に到達しようとしたとき、パーンと1発。確かに、催涙弾と、すれ違った。その射撃手、皆逃げても、そのままたたずんでいた。しっかり、いただきました。美味しい思い出です。
3発目、かっこ悪いので。おしまい。



2004年3月3日

我が家の庭から出てきた、東京の敷石です。
あの最高の武器でした。
1970年ごろから、茨城県内に大量入荷した模様です。

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