催涙弾物語(1) 投稿者:催涙三郎  投稿日:2003 9月 6日(土)

催涙太郎殿
名調子に水を差す積もりはないが、事実関係だけ。
「真正面から顔面に向ってガス弾を撃たれた経験者は手を上げて…、おらんじゃろう。」
私の経験する催涙弾は6.15樺美智子の亡くなった日。
黒々とした大軍が、国会を包囲していた。
若者には、今国会を突破しないと日米安保条約が国会を通過するとの悲壮感があった。
ちょうど、その日は日米安保条約が自然承認される6月19日の4日前だ。
集められた大衆は反代々木という共産党の議会主義に反対を唱える学生だけの集団である。
何かを予測しながら、大軍は静かに全員が集るのを座ってその時を待った。
決して統制の取れた集団とは思えない。
それでも、全てが、自分の大学で学生集会を終えて、大挙国会に動員された。
すると、一斉に笛の音とともに、大軍が動きだした。
国会を包囲した大軍は1万人とも3万人ともいわれる。
大軍の動きは激しさを増した。
それも、国会を一周だけするのではない。
2回3回と国会を包囲しながらのデモ行進だ。
何か獲物を狙うようでもあり、また、一部大衆の中に苛立ちが走った。
それ以前4月28日には、大衆は議事堂チャペルセンター前からの国会突入を経験していた。
これは、国政史上、2,26に次ぐ快挙でもある。
当然、チャペルセンター前からの突入の期待が高まった。
しかし、1度、2度とその期待は裏切られた。
そこには、余りに多くの装甲車、警官の群れがあった。
3〜4回目の包囲デモの最中に、隊列の中に、国会突入が始まったと噂が広がった。
どこかは分からなかったが、誰もがチャペルセンター前を意識した。
私の所属する大学は弱小軍団で、総勢20数名の隊列であり、デモ隊の後方に位置していた。
それほどに全体の隊列は長かった。
その長かった隊列が崩れるのは一瞬の出来事だった。
後方にいた、我が隊列の前に視野が広がったのは、噂の立った数分の後のようだ。
視野が開けると、その前では、南通用門に向かう別の隊列があった。
その隊列は、見う見るうちに、警官との衝突で霧散した。
私は、チャペルセンター前でないことに、落胆の気持ちが走ったのを覚えている。
我が隊列の中の同志数名が隊列を離れて、南通用門に立って、守る警官とのドンパチを始めた。
武器は竹竿である。
明らかに竹竿の折れ曲がるのを目にした。
ここでも、哀れを感じた。
誰かが、警官の隙を見て、南通用門扉には長い鎖がかけたらしい。
誠に細い鎖だが、後で、この顛末を語る人もいる。
すでに、それを引っ張る群集は少なかった。
それでも、それぞれに持った得物で、学生は闘っていた。
それは、円形劇場での観劇のように、群集に取り囲まれての行動であった。
突如、全く、突如だが、警官が守りを解いた。
南通用門が、少数で引っ張る鎖で開かれた。
どっと、南通用門に向かって群集が殺到した。
樺美智子はこの中で死んだと思う。
国会に突入した群集は数千人ともいわれる。
デモ隊のほとんどが、あの狭い南通用門から入場した。
ここで、再び、集会が持たれた。
とりあえず、私の催涙弾物語第1号

催涙弾物語(2)

一緒に入れた自動車の演壇で、全学連幹部の誰かが一学生が殺されたと叫んだ。
「その報復にチャペルセンターに向かおう」と呼掛けた。
チャペルセンターには、4.28国会突入の経験がある。
私は隊列の先頭にいた。
振り返ると、演壇車は南通用門を離れようとしていた。
後ろに続く群集の波は薄かった。
その数は、多くて数百名規模だ。
隣の仲間が「やばいやばい」と言った。
それでも数百の群集が、南通用門内の広場からチャペルセンターに向かうように動いた。
前には、黒々とした警官が待ち構えていた。
南通用からチャペルセンターは下りであり、警官の抵抗は小さかった。
向き合う警官の隊列が崩れた。
誰かが、「警官が危ない」と叫んだ。
群集は動きを止めた。
その瞬間、崩れた警官の更に後ろの警官の隊列にいた指揮官から「行け」の号令がでた。
最初はこん棒の突きで襲ってきた。
デモ隊の隊列が崩れた。
更に「かかれ」の号令が飛んだ。
逃げ惑う群集に向かってこん棒の嵐が振った。
その音は「トタン屋根を襲う夕立」の音に聞えた。
この時に、ほとんどの群集はこの時、頭を割られた。その数は数百に登る。
もちろん、ほとんどの学生が拘束された。
私は、逃げ惑う学生が南通用門に今もある楠(の木)にしがみついたり、登ったりする学生を見た。
何重となく学生は楠にしがみついた。
私は、最後に楠に近づいたときに、その危険をとっさに察知して、この群集を迂回して、南通用門から外に出た。
外では、知合いの女子学生が私を向かえた。
私は勇気を持った。
そのまま、チャペルセンターに向かった。
チャペルセンター前には、警官さえ姿を見せていなかった。
国会内には装甲車が陣取っていた。
国会の外には、14台のトラックを改造したような装甲車が並んでいた。
南通用門から逃げてきた学生も数人である。
ちょうど、チャペルセンター前は闘争の死角といえた。
誰かが、一台の装甲車に手をかけた。
その数は、5,6人に増えたが、装甲車はびくともしなった。
しかし、見る見る内に学生の数は数十人となった。
その時に、ようやくに装甲車が揺れ始めた。
そして、遂に、装甲車が横転した。
歓声とともに、誰かが火をつけた。
もやもやと火の手は上がった。
群集は、その知恵を次の装甲車に応用した。
群集も増え、喚起に包まれた。
最後の一台を燃やすや否や、遠くで、「ポーン、ポーン」と音が鳴り出した。
それが催涙ガスとは誰もが知る良しもない。
しかし、次の瞬間に機動隊の群れが見えた。
最初は催涙ガス弾は群集の後ろや前に山なりに落ちた。
それでは、群集は怯まなかった。
とりあえず、私の催涙弾物語第2号

催涙弾物語(3)

警官との肉弾戦で、互角の勝負を挑んでいた。
それほどに、南通用門で苦肉を舐めた学生がチャペルセンターに集っていたのだ。
その時に、私は、催涙弾が水平に打ち始めたのを見た。
それこそ、顔面を通り過ぎる弾を感じた。
先頭の警官は明らかに、催涙銃を水平に構えていた。
私は危険を感じて一目散に逃げた。
警官は畳みかえるように、機動力をました。
幸い、チャペルセンター前の道路の先に4つ角があり、曲ったところに電話ボックスがあった。
私は疲れから逃げ切れないと思った。
とっさに私は電話ボックスに飛び込んだ。
電話をかける振りをした。
その瞬間に、角を曲がった警官が押し寄せた。
警官の一人が「誰かが、ここにいる」と叫んだが、警官は前にいる群集を追いかけて、私の目の前を去った。
ゆっくりと、私は同志への電話をして、無事を確かめた。
短い時間と思ったのだが、彼もまた、南通用門から逃げて、真っ直ぐに自宅に帰り、医者に見てもらほどの時間的余裕があったらしい。
その後、警官のいないのを確かめ、国会から飯田橋までを恐る恐る歩き、始発を待った。
その間も、警官は路地をくまなく、探索していた。
幸いに、彼らは、独り行動が出来ない。
さすがに、飯田橋には、始発を待つ人々がいた。
その中で、私は1日の安堵感を持った。
太郎殿、前後を説明するのに時間がかかりました。
これで1幕は終わりですが、催涙弾物語は、5幕が良いところかと思います。

 

催涙弾物語(追記)

催涙弾が日常的に使われるようになったのは、1970年前後である。
1960年は、あくまでも、警察は市民警察であり、治安警察ではなかった。
治安はむしろアメリカの駐留軍によって守られていた。
だから、善良な市民が、電話をかけているのを見て、とがめだてすることはない。
たとえ、1970年代に向けて、闘争が激しさを増したとしても、所詮は民主化運動である。
人々は、家庭に帰り、職場に帰り、大学に戻れば、安全であった。
その逃げ場が精神的には市民であり、それを支える日常的な物理空間があった。
電話ボックスという小さな空間すら、市民権保護の場所である。
といえば、軒下といえども、警官は踏み込む事はなかった。
それが、1960年安保闘争6.15の実体である。
実は、1970年安保闘争もまたそのように闘う予定であった。
この闘いを変えたのは、他でもない、日大闘争である。
日大闘争は、戦後のこの市民権を逆手に取った闘いを否定した。
その上で、この記述の最後として、6.15から6.19に到る他愛の無い、安保闘争を記す。
6.15は通常の人々を震撼させた。
私を東京から逃がそうという話も進んだ。
それは、GHPが行った赤狩りを知る人は、6.15のような闘争に共感し、かつ、その危険性を理解していた。
しかし、日本の警察と進駐軍との違いは理解していなかった。
大衆闘争は、この違いを乗り越えて、数日という短い期間ではあるが、日常性を打破して育っていった。
私が朝帰りで、大学につくと、大学の中は騒然としていた。
クラスというクラスが討論を巻き起こしていた。
私も授業に出た。
授業は討論会場であった。
私は6.15を非難する共産党(民青系)の諸君の意見にうんざりしながら眠気が走った。
しかし、授業参加者は違った意見を持っていた。
やおらと私は発言した。
拍手が沸いた。
後は、政府非難決議が飛び散った。
次の瞬間、それぞれが、学内オルグ活動を決議していた。
見事に大衆は昨日の国会突入を見て、目覚めていた。
次の日の学生大会は、普段の登校人数(400名)の倍以上で成立し、19日夜の日米安保条約自然承認に合わせた抗議のストライキ権を確立した。
19日は、数万の学生が国漢を取り巻いた。
ほとんどが、共産党の自衛隊出動というデマに抗しての群集である。
当時の総評も国会周囲に労働者を動員した。
それは数十万人にも及ぶと言われている。
誰からともなく、整然とする闘いが叫ばれた。
ヒットラーではないが、国会放火のデマも流された。
そうして、労働者数十万が、国会に近づかないことが伝えられた。
希望に燃えた学生達は、日米安保条約の自然承認を待って、がっくりと国会を去った。
学生が国会を包囲してたときに、与党議員が震え上がって、国会の一室に寄り添っているとの情報が出た。
当時の江田社会党委員長は、国会周辺の石塀の上を右往左往していた。
明らかに、政府機能は麻痺していた。
学生達が、国会を制覇した一瞬であった。
しかし、それ以上の方針を学生達は持たなかった。
この時、国会占拠は十分出来た。
占拠は、数十万の大衆を動かしたであろう。
この実現は、1970年まで持ち越された。

三里塚1(催涙弾物語) 投稿者:催涙三郎

私は、当時三里塚闘争を三里塚に生活する農民達の闘いと思っていたので、その闘争との係りは、日大闘争ほどではない。
というよりは、成田空港は国家的事業であり、国が威信をかけた事業故に、その敗北感は先にあった。
結果として、三里塚では今でも闘いが続いているのであり、その素晴らしさに感激する一方、日大闘争に勝利しなければ、三里塚での勝利はないと共に語った多くの言葉の空しさを感じざるを得ない。
それでも、日大全共闘の学生達の多くが、参加していった経緯もあり、
この闘いを今無視して、日大闘争を語ることは出来ないと思う。
すでに書いたように、日大全共闘10周年の集会をやると、その集会がそのまま三里塚闘争勝利となるような具合でもある。
この三里塚は農民の闘いであるとの原則は日大闘争では守られていて、三里塚同盟の戸村一作委員長には、講演なり、支援なり多くを学んだ学生達は多いが、日大全共闘の決議で、三里塚闘争を闘ったことはなかったと記憶している。
それ程に他の闘いとの連携の難しいことを日大闘争は自ら示していった。
という前置きはよしとして、これは私の経験としての三里塚闘争であり、決して、誰も語ってくれない三里塚闘争でもある。
そして、その最大の印象は初めて身体に催涙液を浴びたことである。
催涙ガスの最初の経験は1960年の6.15安保闘争である。
催涙液の最初の経験は1968年の3.10成田闘争である。
ともに、日本発というか、新たな闘争の幕開けに私は参加したことになる。
この記念すべき闘争の表現を第三者の言葉で語ると、「反対同盟千三百人、全国から一万人の労働者・学生・農民・市民、全学連二千人はバリケードに突撃、催涙液の放水を浴びながら突入、数台の装甲車と数千の機動隊に守られた公団に肉迫した。その後方を反対同盟・反戦青年委・市民が支援、逮捕者百九十八人、負傷者五百人を出した。」
となる。
私は、不謹慎にも、彼女と一緒に空港公団前の三里塚公園に足を運んだ。
思ったよりも、大きな集会であるので、感心を示しながらも、この集会が、成田空港公団占拠という目的を持った集会とは知らずにいた。
偶然にも、彼女の中学時代の先輩早稲田大学のKに会い、紹介された。
Kも一匹狼で、集会に参加したようだが、私たちをデモ隊に加わるように誘いながらも強制はせずに、そそくさとデモ隊の中に入っていった。
その隊列は白ヘルメットであると記録する。
その時のKのことばで言葉で、「一番白が激しいので、そこに参加する」との意思表示であったと記憶する。確かに、白ヘルメットは突撃集団の先頭の立った。
若者が激しさに飢える時代の証明でもある。
すでに、雰囲気では、組織動員の時代が終わっているようにも見えた。
Kから隊列に一緒に入れと誘われたとき、一瞬、躊躇ったのは、年齢差かもしれない。。
さて、集会への集まりは鈍く、時間を要したが、行動は早かった。
隊列が整えられるや否や、デモ隊は即座に成田空港公団に走った。
何故か、私もまた、血潮が騒いで、デモ隊の後ろに入った。
平坦では足早でも、坂道はゆっくりに見える。さらに、その速度は鈍った。
デモ隊の先頭は、岡の上の公団を守る機動隊との折衝が起こったらしい。
その瞬間、どーとデモ隊が崩れながら、岡から降りてきた。
同時に、私の上にも、放水車が雨を降らした。

 

三里塚2(催涙弾物語)

この雨が戦後初めて使用された催涙液と分かっのたのは、次の朝、新聞を見てのことである。
確か、この催涙液はその強さから、2度と使われることはないと記憶している。
また、この液がいかに強力であることが分かったのは、霧雨のように少し被っただけなのに、何日経っても、鼻の上にできた爛れた皮膚が直らない事である。
それが解消するには、半年以上を要した。
もちろん、経験上、医者に行ける筈がない。
話を戻すと、霧雨が降ると同時に、隊列が壊れた瞬間、すでに、機動隊の姿が前に現れた。
すれ違いに、先に紹介されたKが、首を振りながら、下りてきた。
私も危険を感じて、集会場に下りることにした。
今度は、後ろで、催涙ガスの発射音が鳴り出した。
公園の裏には、夕暮れとて、黒々とした木戸の山があった。
咄嗟に、私は待たせた彼女を連れて、集会場の背後の山に逃げた。
安全と見た、山にも機動隊が催涙弾を打ち込みながら近づいた。
すでに、機動隊は勢いずいて、参加者を逮捕し始めた。
山の上で、彼女は震えて、足が止まってしまった。
これは拙いと思って、恋人同士のデートを装う事とした。
機動隊は次々と叫びながら、2人の側を行き過ぎた。
もちろん拘束されて連れて行かれるものも多い。
ようやく落ち着いた時点で、私は集会所に下りて、成田駅に向かった。
もしかしたら、この経験は、6.15安保闘争国会突入と全く同じものだ。
まだ、ここでも、恋人同士を装った2人を見過ごした市民警察は健在であった。
しかし、60年から、8年以上も立って、日大闘争が開始される前夜である。
確実に、国家権力はその武装の質を高めていた。
それが、日大闘争での催涙弾の水平打ち、三里塚での催涙弾水平打ちが1女子学生の死をもたらすという時代の流れが、確実に変わっていた。
60年から10年近くを経て、人々の焦りは、赤軍を生み、過激派を生み、党派闘争をエスカレートさせ、新たな学生運動を作り出していた。
この中で、日大闘争が、赤軍と間違えられたり、党派に間違えたりしていく背景がある。
しかし、日大闘争は、学生運動とは違った新たな1ページを築くこととなった。
学生運動と、学園闘争とは1線が引かれることになる。
この厳しくも短い68〜69年日大闘争が始まるのは、この後である。

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