五十余年は 一夢の中… 

             
                                         <1968年6月13日の法学部2号館>

 

 

 生を享け56年の今、日々の暮らしに追われ身心は時々刻々に衰え行くままに為す術もなく、生命尽きる<時>への恐怖の意識さえ懶(ものう)く薄れ、ただ生き長らえているかのような私。                  
 『言葉にするときっとうそになる…』と指摘した学友への共感…を言い訳に控えてきた私信を、懐かしい学友との忘れ得ない時間、その“序章”を中心とした<夢>の記憶として綴る……。

 私にとっての日大闘争、それは、「こうとしか在り得なかった愚直な人生」の途上で遭遇した。
 日大全共闘への関わりはさまざまでも、同時代に生き、どのような形であれ日大闘争に関わり、日大闘争の渦中で人生と学問のあり方を共に学ばせてくれたかけがえのない学友たち、保守的にして先進的、そして愚直にして誠実にスクラムを組んだ学友たちへの感謝の念は尽きない。

 日大生であること、日大全共闘に関わっていること自体が誇りであった私。
 それは35年の時を経た今も、そして生ある限り、変わることはないだろう……。
 法学部に入学した1968年の日大全共闘結成時を顧みると、まさに「一夢の中」の感ひとしきりだ。
 非現実的な受験に失敗し、京都の某私大に一旦は席を置いたものの、挫折感を抱えたままで上京。 
 暗く重苦しく鬱々とした心情に苛まれるだろう…との不安は次第に薄れ、すでに新幹線車中から、漠然とした解放感に浸る自分を不思議な思いで意識したことを覚えている。

 そして、教養課程の文理キャンパスで目くるめく陽光を浴びていた私-----。
 ガイダンス中、次第に大きくなる指揮笛の音とデモ行進の“地響き”に教室の窓枠が突然、揺れ出した。
 討論に切り替えた教室から学生服に革カバンを抱えたまま、夢中で抜け出し、もうもうと立ち上る砂煙の中、見知らぬ学友と腕を組み、初めて経験したデモ行進。
 文理・会計課で不当な事務処理をされ、抗議を認めないどころか学生を道具のように扱う職員や抑圧的な当局の対応に憤り続けていたところ、「20億円使途不明金事件」、「経済学部会計課長の失踪」、「理工学部会計課の女子職員自殺」などが相次いで発覚した。 
 初心で愚直な正義感と人倫感覚が、わかりやすい体験によって自然に熱を帯び、旧制高校時代への憧憬や読書内容からの影響もあってかどちらかといえば「保守的」とも評されることが多かった私なりに、生きることと闘うこと、それに学ぶことがひとつのことであると考えるようになり、<行動>につながった。
 砂煙にせきこみながら汗だくの学生服でデモ隊列を組み、憤怒の思いを吐き出すように持ち前の大声を腹の底から発しては反響する声に自己陶酔、意識下の鬱屈した気分までが騒ぎ出すような解放感に浸っていた-----。

 愚直・鬱屈・内向的な個性への悩みを抱えながらも、68年から69年はバリケードと京王沿線の下宿、70年以降は他大学の学館やバリケードを転々としながら西武池袋沿線の下宿などに起居し、歴史的な日大闘争の渦中での読書と<行動>、学友との協働・関係を経るなかでいつしか個性の自覚を軸にした生きざまを描くことができるようになって行った。
 実際、「自信」と言えば傲慢さの嫌いが残るが、家族との討論や自身の内なる恐怖に怯え続けながらも<行動>するなかで、個性が故の悩みも対象化され、次第に和らいで来たようだった…。
 自主講座や読書、討論を通じて使うようになった“借り物”の言葉やイデオロギーを身にまとい、個別日大闘争に勝利する方向性の中で社会と世界も捉えることができる…と信じようとした。
 また、少年時代の<死>への恐怖から抱き続けてきた「生命の吾得」(存在革命)論につなぐ独自の問題意識も手離すことはなく、今も問い続けている。

 敬意を表すべき労作「日大闘争年表」(編集委員会編)で今、再確認できる日々の闘いの時間に追われ<政治>にはまっては傷つけあいながら、追われるように社会人としての生活を始めた。
 そのような中でも「痩せても転んでも日大全共闘」と“職場バリスト・実力行動”を夢想し続け、諸々の課題別・地域闘争などに<夢>を描いた(…または、しがみついた?)。
 挫折を繰り返し、その中で新たに出会ったさまざまな友人でさえ「まさか…」と信じようとしなかった「愚直な私の“ライフスタイルの変革”」によって、なんとか生き延びた……。
 こうした私自身の解体と変革の渦中で、生まれも育ちも全くの“他人”ながら、今日までを共に支え合ってきた連れ(女性)と出会った。 
 私が育む<信頼関係>を土台にした最小単位の<社会>は連れ合いを含めた<家族>であり、平凡ながら思いやりと支え合いの共同生活こそが、原点なんだ…と今、まさに愚直に思っている。
 素晴らしいHP『日大闘争by日大全共闘』で学友たちが語ってくれている日大闘争が、「私自身の真実、心に背く生きざまを認めない生=闘い」だと言えるなら、それは、あれから35年の時を経た今、そして生ある限りに私を映す<鏡>と言えるかも知れない。

 数年前、連れ合いと共に衰え行く身心を癒やす旅の途上、その<鏡>に映った良寛に出会った。
 絵本や逸話の中の良寛は日がな一日、かくれんぼや毬つきに興じ子どもたちと遊ぶ姿で知られるが、幕末に生きた良寛を大正期以降、「一個の人間の生き様」として万感の共鳴をもって世に紹介した相馬御風(日本大学校歌も作詞)の著書「大愚良寛」に私自身もまた共鳴した。
 非現実なまでに純粋・愚直な良寛の性格は「性格悲劇」とも言われ、生涯の苦悩の根拠とされるが、幼少時、鋭敏にも感得した「存在の不安」とともに自身をひたすら直視し対象化し続けたのも良寛だった。
 「自分」という存在を問い続け、ついにはその「自分」も捨て『僧に非ず、俗に非ず』と言い切った良寛。
 『厳しい修行に耐え抜きながら、腐敗し続ける宗門を激しく糾弾して住持を拒否、破れ衣に鉢ひとつで名利や迷悟とは無縁の放浪行脚を選びながら、愚かに、穏やかに、優しく、自然のなかに埋もれるように一体化した生涯を閉じた』----とされる良寛。
 とりわけ漢詩による良寛の直接的な心情表現に「永遠の日大闘争で追求してきたもの」を見い出し、春夏秋冬、良寛が歩き、踏みしめた道を辿り、草庵の山や荒磯の浜に身を置き続けながら、今、そしてこれからも《私の日大闘争》を問い続けて行きたい。

  生涯懶立身   生涯 身を立つるに懶(ものう)く

  騰々任天真   騰々(とうとう) 天真に任(まか)す

  嚢中三升米   嚢中(のうちゅう) 三升の米

  炉辺一束薪   炉辺 一束の薪

  誰問迷悟跡   誰か問わん 迷悟の跡

  何知名利塵   何ぞ知らん 名利の塵

  夜雨草庵裡   夜雨 草庵の裡(うち)

 雙脚等關L   雙脚(そうきゃく)等閧ノ伸ばす          (大愚良寛)

                        

                        

                                    椿  晋一(1968 法)

                                                    TITLE:五十余年は 一夢の中…
                                    DATE :2003/12/31                                                                                                                                                                                                                                        

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