決起への道 | 1958年 | 1966年 | 1967年 | 1968−1 | 1968−2 | 1969年 | 1970年 | 1971年 | 現 在 |
日大闘争ドキュメント 前史1958-1965 |
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日大経済学部旧校舎写真(経済学部校友会HPより) 経済学部近影 2003年現在
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はじめに
読者のみなさまにお願い。 稿が進むにつれ、当時の資料・写真などが徐々に出てまいります。 その中でご都合の悪いものや伏せておきたいことなどがございましたら, BBS掲示板あるいはホームページの下欄のアドレスへメールでお知らせください。 直ちに当該部分の訂正を行います。 なお、これらの訂正は、このホームページの性格上、 何の政治性も方向性もなく行いますのでご了承ください。 |
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●経斗委って何? むかし日大斗争がありました。1968年から1971年頃までの話です。
過ぐる30数年にさかのぼる過去に目を向けつつある、
日大闘争年表 「日大闘争史をつくる会」 から転載 1958年(昭和33年09. 古田会頭、改善案を出す 10.23 商経学部二部自治会学生大会で、勤務評定反対闘争に参加した自治委員の不当処分撤回と、日大改善案・警職法改正案反対で24・25の両日スト決行を決議 10.24 授業放棄全学スト、ピケットを張り学内デモ 10.25 学校当局は臨時休校を発令。デモに参加した学友は学校代表者(井手学生課長)と会い、27日に学部長会見を要求 10.27 学部長との会見開かれず 10.28 28・29両日の教授会で、スト決行の責任者7名を退学処分にする旨発表 11.22 不当処分反対で学生が学内抗議集会を要求。それに対して職員は学生に暴行を加える。「警職法改正案反対中央集会」に参加し、商経学部前でデモをしていた他大学生が乱暴される。学校当局は事態悪化という理由で、高木学部長名で機動隊2000名を学内に導入 1959年(昭和34年)10.創立70周年記念式典挙行、天皇、岸首相、松田文相ら出席、学生代表2000名出席 1960年(昭和35年)05. 哲学学科教授赤坂三男(学生指導委員長)学生に対し安保反対デモへの参加を禁じる 05.05 安保改定阻止、岸内閣打倒のスローガンのもとに、1500名が全学連と国会前をデモ 05.13 安保改定促進学生総決起大会(自民党学生部)に日大生500名参加、提灯デモで気勢あげる 1962年(昭和37年)01. 数学科事件(文理学部長秋葉安太郎は、数学科の福富節男、木下素夫、銀林浩、倉田令二郎の4氏に、大学の思想にあわないと辞職を強要) 1963年(昭和38年) 芸術学部応援団解散決議 11.福富氏、私物を取りに来て、職員に暴行される 1964年(昭和39年) 応援団、法学部自治会へ暴行を加える 1965年(昭和40年) 哲学科事件(哲学科総会で選出の常任委員を研究室が替えさせる) 応援団が右翼暴力団と「日韓批准集会」に出席 1966年(昭和41年) 6時限制問題(「合理化」により、サークル活動を圧迫) 4月 日大応援団、球場にて白昼、亜細亜大応援団に暴行 大々的に新聞報道される。 10.14 経済学部三崎祭で芝田進午氏の講演が不許可になり「芝田進午闘争」が始まる。 11月 芝田進午闘争 講演会不許可事件の余波は、この月の大学祭で全研究会の抗議掲示により,全学生に知れ渡ることになる。 12.13 経済学部学生会(藤原執行部)総合部会で応援団の解散を決議。 (けいとういで加筆あり) 日大斗争前史 その1(1958−1967年6月) 夜明け前はとても暗かった この大学,日本大学では10万人という大量の学生を抱えて,しかも学生運動がない,平和な大学と言う売りで社会に貢献する大学と言う触れ込みで学生を管理して,企業社会に従順な学生を世に送り出しつづけていました。 大学経営者のこの目論見はいつまでも成功しつづけるかに見えました。 でもそういった評判の影では民主化や学問の自由を求める学生を暴力的に支配する日大当局による弾圧が日常的に行われていました。 それはすさまじく,他大学並みの自由を求めて行動した学生に体育会や応援団が集団暴力で襲いかかり,その混乱を引き起こしたと言う理由で自由を求める学生が当局によって処分されると言うことが平然と行われていました。暴力の被害者が責任をとらされ,追放されていくのです. 大量の犠牲者が出て、しかも闇から闇へと葬られていきました. こういったことは1958年の日大改善案闘争のすさまじい学生弾圧以来長年続いてきたのです。 その後,表に出た事件としては,数学科事件とか.1967年の経済学部学生会(学生自治会)藤原執行部に対する執行部解散事件などなど・・・枚挙に暇(いとま)がありませんでした。
日大闘争の前段 1958年日大改善案斗争 第二部自治会を中心とした、古田の日大改善案なるものに対する反対斗争。 後日、当事者の証言によると各研究会、一般学生などかなり広範な反対運動や連続座り込みなどが行われた大規模な反対運動だったようだ。(共産党の活動家が中心だったという当時の当事者の証言がある。また当局、H学生課長く当時>の証言もまた同様であった。) 大量の犠牲者(退学など処分者)を出して斗争は終息した。 以下は、当時配布された、学部当局の小冊子である。 |
<このホームページの読み方> @正楷書体(HG正楷書体)の部分は、当時の資料の原文です。 A大文字(MSゴシック)は本文です。黒小文字も同様、本文 B赤字は、注釈・解説等の加筆部分です。 C茶色文字は、あとからの追加加筆です。 D当事者の証言は、できるだけ正確にそのまま載せるよう心がけていますので、 意味不明や前後の脈絡がはっきりしない場合があります。 |
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1965年日大文理学部数学科事件(資料参照) |
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