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 日大闘争ドキュメント 1967年    


   

1967年度学生会(藤原)執行部の成立と4・20事件

 
 

                  



1967年度 経・短学部学生会(藤原)執行部の闘い

1967年度学生会藤原執行部、学生委員会において経済学部応援団解散決議、及び部室没収。

学生側、いまだ蜂起せず

   建学の基表紙 建学の基1 建学の基2 建学の基3
   この本の中のXXX印は何?ああ、それ?当局の検閲の跡だよ。
   え?検閲されたのをそのまま伏字で発行したの?そういうことだ。
        検閲の実態を暴露したわけさ…なるほどね。

1967年(昭和42年)118
経済学部学生会(藤原)執行部に対する集団暴行事件

         
       
経済学部49番講堂で開催されていた学生会拡大学生委員会に応援団始め,右翼体連が、乱入,議場占拠の上,執行部始め,議場の学生に暴行,執行部員を室外に拉致して,さらに暴行を重ねた。執行部員の中には,恐怖と負傷の為床に倒れ,泣き出す者もいた。(藤原委員長証言)
このときは代議員の資格のない右翼学生の集団が議場の各所に巧妙に配置されていて,合図とともにいっせいに立ち上がって議長席に殺到して,執行部全員に机や椅子を振り上げての集団暴力が行われました。(藤原氏証言)

1967・4・20
新入生歓迎大会に右翼が暴力的介入、議場占拠

経済学部新入生歓迎会の会場に体育会学生と応援団が乗り込み羽仁五郎氏の講演を妨害、執行部学生に暴行を加え、歓迎会の解散を認める署名を強制。
純正の右翼、小俣君(故人)が行動隊長として、また日大応援団N川君ら多数が,経済学部大講堂の演壇を占拠,「全学連に結集しよう」などと書かれたデッチ上げのニセビラを撒いた上,「学生会は赤だ」をアジ演説する。
(学生会は,全学連とは何の関係もなかった。)
     当時目撃者のS君の証言。

このとき執行部員全員が暴行を受け,またしても連行の上,講堂外に放逐され、学生会室に押し込められて、さらに暴行を受けた。
     (67執行部 石黒君証言)

講師に招かれた羽仁五郎氏は,演壇上に立ち往生,身の危険を感じて,退避。
歓迎大会は完全に破壊された。

その後,暴力を受けた執行部側が学内を混乱させた責任を負わされて解散させられ、処分の追い討ちを受けると言う信じがたいことが起ったのです。

我が目を疑う、典型的な日大型のすさまじい弾圧でした。

このときの学生弾圧は議場にいたすべての学生の前で白昼平然と行われました.あまりに露骨な事件でした。長年の学生弾圧になれていたせいか、学校当局はつい公然露骨に典型的な暴力弾圧を行ってしまったのです.

 

今度も処分により追放された学生が大量に出ました。
また表面上は平和?な学園に戻るはずでした。

  *4・20事件直後に撒かれたゲリラビラ、事件の詳細を速報している=出所不明ビラ

 

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―――――――――――――――――――――――――――
1967年学生会活動報告

1966・12・10 第一回学生委員会
○学生会執行部選挙(藤原嶺雄委員長以下20名)
○応援団問題が学生委員より提出される。
12・13 第一回総合部会 ○応援団の解散決議がなされる.
12・14 第二回総合部会
○応援団解散における事後処理として7項目を決議
12・15 ビラ看板の許可をとり大衆化する。
12・16 応援団の部室没収
12・19−21 執行部研修会
1967・1・16 校舎改築の件に関して学部当局との懇談会
1・18 第三回総合部会○校舎改築の件
1・18 学生集会開催○(12月14日に決議された)7項目のうち、バッチの件について話し合う
1・19 学生集会開催 ○応援団問題に冠して再度話し合う。
1・29 第四回総合部会 ○校舎改築の件
2・2 校舎改築の件に関して学部当局との懇談
2・6  第五回総合部会 ○校舎改築
○一研究会一部質の必要性について
2・14 三島へ執行部員4名派遣
○下宿周旋に関する件
○学部状況報告
2・14−16 短大研修会
2・15−17 ゼミ連研修会へ学生会より3名派遣
2・19−22 スキー教室(菅平高原にて)
2・26−28 ○榛名湖にて執行部研修会
4・7−13
○リーダースキャンプ(岩井伊藤寮にて)
○  8−11日研究会学生委員・代議員
○11日―13日クラス学生委員・代議員
○基本方針・活動方針の具体化
4・20     新入生移行生歓迎会
○暴力事件起こる

――――――――――――――――――――――――――
(67年度学生会執行部作成)=当時のビラより

●藤原執行部活動状況(当時の執行部による現物ビラ)

ニセビラ表面  ニセビラ裏面(4・20事件当日に撒かれた右翼体連製のデッチ上げビラ)
  この偽ビラは、表は、学生会執行部の書いた実際の字体に似せて書き、裏はまったく嘘のデッチ上げのものであった。
  なお、これは、4・20当日の朝、すでに水道橋駅で何者かによって、学生に配布されていた。
  事件は日大本部=古田の直接の指揮のもとに、計画的に実行されたことが、後日のすべての証言者の証言によって明らかにされている。

 

 
 

経済学部4・20事件ドキュメント

  
  (なお、この稿の執筆に当たっては、文理=元「叛バリ」編集委員のO氏のご尽力が大であります。)

日大闘争史上の一大エポックとなった経済学部4・20事件の真相は、闇に葬られ今では完全に忘れ去られている。
だがその重大事件の起こった現場は、2004年の今も厳然として日大施設の中に存在する。
その現場とは、日大経済学部「大講堂」である。
この事件を解明するにあたって、まず当局(大学側)の証言者の証言から聞いてみたいと思う。




当時経済学部学生課職員S氏証言

19日夜、20時前後、橋本課長より明日学生証検査を実施するから、8時30分までに出校するよう命ぜられた。

8時15分より8時20分の間、本日の打合せ、及び実施要領を聞く。

8時20分より8時40分の間本館で受付検査

8時40分より9時40分の間2号館で受付検査

10時40分より11時40分の間本館で受付検査

11時40分より12時40分の間2号館で受付検査

12時40分より13時0分の間学生課にて学生会の執行部の写真をみる。

13時10分より会場に行き、初め1階、あとで2階にあがる。

13時30分より土屋君の挨拶(内容は騒音で所々聞えないが学校側を誹謗するものであった。次に立った藤原は、マイクの関係で声が騒音で消され、聞えなかった。

たヾ、司会者が少しマイクに近ずくように指示すると「最後に…」という言葉がマイクを通して聞えた。

休憩の時、放送室に行き、そこから9階の廊下をまわり、異常がなかったので8階に行き、便所の方に来てみると中から応援団の学生(バッジよりの判断)が出て来て、こんなビラが置かれていた、許可があったか、と言うのでビラを受取り、エレベーターのところまで来ると、橋本課長に会い、事情を話した。

ビラを学生課に保管後、8階に来るともう帰ったあとでした。すぐ学生課に行き待期していましたが、何の指示もないので、15時ごろより約1時間受付検査を実施した。

問 放送室のテープは回っていましたか。

XX  3人ほど学生が首をつっ込んでいたので、大分テープレコーダーは回っていたと思う。

(問) 事件の目撃者はいないか。

XX  岩○さんが見ていたと思う。

(注 アルバムにより前記応援団員は伊藤堅であることを確認)




木○氏(教授)証言(唯一の大学側の暴力被害者)

講師室にいたとき牧○さんが来て大講堂の方が、講演が出来ない状態であるので、何んとかしてほしいと云われたので、エレベーターで、大講堂に行った。そのとき井手先生が、マイクの前で、しゃべっているところだった。

井手先生が、先に講堂を出て行かれたので井手先生に会い前後策を相談するために、2階迄行った。そのとき講堂室の前で吉村が羽仁先生をお連れして、立話をしているのに会った。ここでは失礼なので会議室へお連れする様指示した。指導委員長室に行き委員長に、学校の客だから指導委員長自身が会われて丁重に扱ったらと進言した。

それから井手先生と二階のホールで会い学生の騒動の取り静めについて委員長自ら出馬してもらったらどうかと、云われたので同意した。

そこで吉○先生を連れて、学生会室に行き混乱をとり静めようと割って入った。(この段階では暴力はなかった

しばらくして、伊藤が「何故、ビラをくばるのを許可したか」

私は「それは分らん。不許可な文書であり、許可がなければ、ルール違反である」と云った。又、或る学生が、北村が座っているのを見て、目をなぐった。何故暴力をふるうかと、右腕を掴まえたが、とうゝ逃がしてしまった。

まもなく豊○が、呼び込まれ色々聞かれたのち、数人の学生に集中攻撃を加えられ「みぞおち」をやられ、ぐったりとたおれたので、彼を助けようと入って行った。(腰から下は蹴られていた

このとき暴力行為がはげしく行われた。

そのあと、伊藤が「先生がゼミで教えたんだろう」「学生会の指導は先生がやったのだ」などと云っていた。

私は「執行部とは学生指導面で接している。ゼミではそういうことは教えていない」。このとき後から、先公やっちゃえと声がかかり、腕を取られ引きずり込まれ、又後頭部をやられた。

暴力がおさまってから、数人の学生が負傷しているので、手当をするため医務室に電話した。その後、岩○・田○先生と交替した。

問) 水道橋でビラが出たというのは伊○ですか

XX  そうです。

(問) 先生が豊○をかばったとき、後から椅子でやられましたか。

XX  それは記憶していない。

問) 伊○は暴力をふるわなかったか。

XX  ふるってはいない。暴力を行使した学生は誰か分りません。

(問) 伊○が、先生を確認するような形になったのですネ。

XX  そうです。

(問) 豊○に関して暴力をふるった学生は、彼が何者であるか理解していなかった訳ですか。

XX  そうだと思います。というのは何者だと云っても、執行部ではないと云っていたか、彼かあまりしゃべらなかったから

(問) 先生を殴った学生を知らないか。

XX  ちょっと分りません。教師に対し暴力をふるったというショックが大きかったので確認できない。

(問) いつまでいたか(学生会室に

XX  静まるまでいました。

 なお、申しそえますが、色の白い、衿足のきれいな、顔のしまった学生(注:故小俣君と思われる)が、豊○が執行部室で暴力をうけたとき、暴力を行使していたように思われる。


これらが大学側関係者の語る、当日のおおむねの事実経過である。
大学側の証言は、右翼体連側をかなりかばった証言であるが、事実の時間的経過に関しては、この通りのようであると思われる。




また、当時の学生側の経過説明およびその見解は次のようである。

 
 

1967(S42)・4・20当日ドキュメント

(1967)4月20日、その日は、新入生・移行生歓迎大会が催される日であった。
 予定では、大講堂で午後1時より執行部役員の挨拶、引き続いて羽仁五郎氏の講演(私の大学論)、最後に映画「千里馬」が上映されることになっていた。
 ところがこの日、当局は早朝より、「定期学生証検査」と称して、経済学部へ入館する者一人一人に学生証の提示を要求し、経済学部学生以外は全て、入館を拒否したのである。
 実際、それまでに、このような検査が定期的に行われたことはなく、「定期」とわざわざ銘打ったのは、あたかも学生証検査が、毎年定期的に行われているように見せかけて、計画的に学生に目をごまかそうとした物であった。
 この学生証検査の意図するものは、その日、それから起こるであろうある事件に対して、他学部、あるいは、他大学からの民主的学生の動員を当局が恐れるあまり、事前にそれらの学生を阻止しようとしたものに他ならなかった。
 ところが一方、大講堂のある経済学部1号館の裏入口からは、他学部応援団、他学部体育部学生が、なんの咎めもなしに、続々と隊列を組んで入館していたのである。
(このことについては、多くの学友が目撃しており、当局がこのことをいかに隠蔽しようとも、事実は事実として存在している。)
 このようにして、歓迎大会の始まる30分前の12時30分前には、大講堂の席の大半が、黒い学生服を着込んだ400名ほどの、体育部学生ならびに応援団によって、占拠されていたのである。
(彼らはその日、大学より日当を宛がわれて動員されたことが、後に判明した)。
 このような状況下、予定の1時を少しおくれて大会は開催されたのである。

 ところが執行部役員が挨拶にたつや否や黒学生服400名の者らはヤジを飛ばしたり、大声で騒ぎ始め、執行部役員の挨拶を妨害したのである。
 またひき続いて演壇に登った羽仁五郎氏に対しても、ヤジや罵声は収まるどころか、いっそう激しさの度を加え、「アカ!」「ジジイ引っ込メ」等々の全く聞くにたえないような罵声が乱れ飛んだ。
 このような状態の中で、突然、応援団員、伊藤堅ならびにその配下数名がビラを撒き始めた。
 そのビラには、「全学連に結集しよう。」との見出しで、「オール、日大体育会の設備の全面的開放」「学生の営経参加(ママ)」「反動建学精神粉砕」「全学連への参加を闘い取り、米日軍事同盟を阻止しよう」等々の挑発的な文句が並べられ、その発行元は(経、短学生会執行部教育局)となっていたが、執行部がこのようなビラを作成した事実は全くなく、明らかにこれは、デッチ上げであり、当局の陰謀であった。

                 
(注!ニセビラ表面  ニセビラ裏面
 
このビラを口実にして、応援団を先頭に数十名の体育会の学生が、演壇に駆け昇り、控室にいた執行部役員を暴力的に引きずり出し、ビラを片手に「全学連に結集しようとは何事だ」「建学精神の粉砕などとふざけたことをぬかすな」等と勝手な言いがかりを並べて、執行部員一人に7〜8人で襲いかかり、思うがままの暴行を加えたのである。
 しかも彼らの暴力の行使はこの会場だけにとどまらなかった。七階の大講堂から、執行部員を大勢で取り囲み、殴る蹴るの乱暴を働きながら、三階まで引き摺り下ろし、学生会室に連れ込んで、徹底的にリンチを加えたうえ、学生会室に置いてあった執行部の書類、私物、備品等々を手当たり次第引っ掻き回し、金目の物や重要書類を略奪し、彼らにとって必要ないものは、破壊して床にぶちまける等、暴力団さながらの振舞いに及んだのだある。
 あまつさえ、彼らは、ただ執行部員のみならず見るに見かねて止めに入った一般学友や民主的学友にも襲いかかり、ついには、あたりの光景は、到底大学の構内とは思えない惨状を呈するに至ったのである。
 こうして2時間半にわたる暴行の後、彼らは引き上げていったが、暴力を受けた学友のありさまは、実に無残とそか形容し得ないような状態であった。
 バットで顔を殴られた者、頭を壁に打ち付けられて脳波に異常を来たした者、胃を殴られて、数日間食物摂取不可能になったもの等、満足に体を動かせる者が一人としていないありさまであった。
 なんと言う暴虐!
 以上が
4・20時事件の真相である。ここに述べられたことに、事実の歪曲や誇張は、一切ない。
 このことがいかに真実であるかは、その場に居合わせた多数の目撃者の証言と、被害者当人の診断書が、明白に物語ってくれるであろう。
 しかも、この4・20事件に見られる計画性は、20日以降当局の取った一連の弾圧工作のうちにますますはっきりとその姿を暴露してくるのである。
(3)4・20以後、当局の計画的弾圧工作 
 当局は20日、暴力事件を起こすと、翌21日には直ちに告示を出して、学生の集会と団体活動を禁止した。
 そして、その日も学生証検査を継続的に行う一方、緊急教授会を開いて、「藤原執行部は学生指導の限界を超えた」との理由を持って執行部の解散を命じ、ついで5月1日「学内の秩序を乱した」との理由で執行部全員の処分を発表したのである。
 これらの解散処分の理由を一見しただけで、その不当性は全く明白であろう。
 また、この間、学内を集会、団体活動禁止という戒厳下におくことによって学生の討論、自治活動を封じておき、5月7日、当局は筋わら執行部の活動があたかも全て犯罪的であったかのごとく宣伝したパンフレット
「学生諸君に告ぐ」を発行したのである。
 これは戒厳令下何らの真実を知るすべもなく混乱していた多くの学友に対して、真実を歪曲、隠蔽して藤原執行部の解散、処分が正当であるかのごとく見せかける為の誤魔化しの手段に過ぎない。
 そしてまた、当局は、破廉恥にも反動教授を中心とする暴力事件調査委員会なるものを設立し、いかにも、20日の暴力事件の真相を明らかにするかのようなポーズを示すという手の込んだ芝居を打ったのだ。
 だが、調査委員会での多くの目撃者、被害者の証言にもかかわらず、今日に至るもなお、暴力行為者に対する処分はおろか、調査委員会の中間報告さえなされていない。
 これら一連の事実によって明白なことは、我々学生の自治活動に対する徹底的な弾圧と破壊とを当局が極めて巧妙に計画的に行ったかということである。

          
(以上「血みどろの三年間・・・・」パンフより)


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★経済学部、空白の学生自治       2002-8-2

1967・5・1
経済学部教授会、藤原執行部を全員処分

学生自治活動は全面禁止。全学は戒厳令状態となる。
大学側は「1・18および4・20事件始め一連の学内騒擾事件」に関し、
「大学の秩序を乱すが如き集会を開催した、責任を問い」執行部学生全員を処分。この処分は,経済学部教授会名で発表された。
尚,暴力行使の応援団始め,右翼体連にはお咎めなしであった。
「藤原執行部の無期停学」と「応援団の解散」の処分が教授会で発表され,執行部全員が学園を追放されました。
応援団の解散はずっと前になされていたのですが,今回執行部との両成敗の意味で学校当局が改めて応援団も解散処分したので片手落ちではないよ,と言いたかったのでしょうが,こちらはまったく意味のないものでした。
なぜなら応援団はすでに解散させられていたのですから・・・でも考えようです。
今度は学校当局自らが応援団の解散を認めたと言うこともできましょうから…
]でもついに体連、応援団などの暴力学生側の処分は行われませんでした。

なお,
応援団解散事件については別稿で詳しく述べることにします。

** 5・1の後日談:
のちにこの件の、「方手落ちの執行部だけの処分は不当だ!」との学生側の追求に対して,学校当局の釈明があった。
それは信じがたいものであった。

当局「いろいろと体育会の諸君に事情聴取したが誰も暴力は振るってないと言っているので処分できないのだよ。」
学生側「証拠の写真があるではないか」
当局「これも検討したが,たとえばこの写真だが,椅子を振り上げているように見えるが,この写真だけでは,実際に振り下ろし暴行したかどうか判定できない。また,こちらの写真も、殴っているように見えるが実際に相手にコブシが当たっているかどうかわからない、ので処分はできないのだよ」
と言うとんでもない言い訳をしたのである。
詭弁にもなっていないめちゃくちゃな言い逃れであった。
これは嘘ではない,本当に当局はこんな言い訳をしたのだ。
その後も,ついに体連側の処分は一人も行われなかった。

 
 

学生会執行部の解体と、右翼体連の学内全一支配

 

学生会が・・・・執行部が学部から消滅した!前代未聞の事態が起こった

1967年5月
学生会執行部のいない経済学部では学校当局の押し付けの臼田君が議事をとりしきり、研究会責任者会議がいち早く始動していました。
(日大全共闘の決起大爆発のちょうど一年前であった。)
体育系の彼は学生服で議長席に座っています
学生服の体育会の代議員たちが会場の各所に配置され、クラブ責任者たちを監視しています。
全員があえて学生服を着て,威圧しているのです。
当時一世を風靡したハイカラーの黒服もけっこういました。
これがなかなかの迫力でクラブ責任者たち(のちの全共闘)を威圧するのです。
当時は筆者も学生服で登校していましたが,このときばかりは右翼と間違えられるのを恐れて,学生服の前ボタンをすべて外して着用していました.
「あいつらとは違うんだ・・・」せめてもの抵抗です.
そういえばあの藤原委員長も学生服姿が多かったな・…まあ,当時はそういう時代だったのです.

< ミ ニ 講 座 >

それではもし皆さんがタイムマシンで当時に戻った際に迷わないように,いい学生服,
悪い学生服の区別ができるように筆者がひとつ見分け方を伝授しましょう。
ちなみに一般生の学生服着用はこの時にはかなりの少数派ではあったのですが・・・・

●いい学生服・・・当時の一般生、のちの全共闘・・・                    
頭髪はボサボサ髪で汚らしい髪形の者が多い。猫背で歩いている。           
早口で言ってることが良く分からない者が多い.
前ボタンを外して着用,またはカラー部分は開けたまま着用。               
下に当時はやリ始めた「ジーンズ」をはいていたら,これはもう間違いなく,のちの全共闘派です。
下駄を履いていたり,サンダル履きでぺたぺたとだらしなく歩いている者。         

●悪い学生服・・・右翼体育会系・・・
\頭髪は短髪できれいに切りそろえている。人相さえ良ければ好青年に見えたかもしれない。
胸を張り堂々と外またで歩いている。声は腹式呼吸で鍛えられて良く通る声。      
学生服は上下とも黒できちんと着用している。                       
真夏でも,間違ってもカラーなど外していない。                       
特にオシャレなのは,ハイカラーで所属クラブのバッチをきらきらと光らせている。  
一番は応援団かな?
ただし,今は亡き小俣君などの生粋の右翼にはハイカラーはいなかったように覚えています。

 

●脱線ついでに当時の学内外の状況を少しお話しましょう。
第一は学校当局による学生証検査です。今で言う検問です。  
学生を監視し、威圧するために常時行なわれていました。            
学生側はこの戒厳令的状況を恥として当局に何度も撤廃を申入れました。

その時のやりとりです。          
学生「学生の自治活動を阻害する学生証検査をすぐに中止しろ」           
(橋本)学生課長「この学生証検査は君たち善良な学生を守るためにやっているんだ」
学生「誰から守るの?」  
学生課長「他大学の暴徒学生からだ」
学生「他大学の暴徒学生?」  
学生課長「そうだ。君たちは知らないだろうが58年の日大改善案事件の時に経済学部に座り込んだ学生を検査したところほとんどが他大学の学生だったんだ」
というものでした。当局はのらりくらりと言いぬけてまるでラチがあきません。
当局の言うことはもちろん嘘っぱちでした.
最終的に学生側は集団でこの検査を突破し以後はあってなきものにしましたが、
その勝利は後述する1968秋田執行部の登場をいま少し待たなくてはなりません。
当局はこの体制をそれ以後全学部に拡げ学生抑圧の定番的手段にしました。    

日大斗争が沈静化してからも長い間継続した有名な全日大検問体制の始まリでもありました。
日大当局の検問による戒蔵令体制は全共斗によるバりケ一ド封鎖の期間を除いて長年にわたって続いたのです。
いわゆる日大アウシュビッツ体制というものです。  
日大は以前よりもずっと悪くなってしまったのです。  
暗黒の学生支配がつい最近まで続く事になります。                          

●第二は応援団を中心とする体育会学生による、彼ら言うところの=不逞学生取締りです。   

不逞学生とは前述の当局の言う騒擾学生のちの全共闘のことです。風紀委員みたいな活動をしていました。
学生委員会の決議により解散させられ,活動禁止のはずの応援団が大手を振ってのし歩いていました。
団長が、部下数名を引き連れて学内を巡視しているのです。
まるで大名行列みたいでした。
校舎のあちこちで、「オス!オス!オッス!」と,ガラの悪いダミ声が鳴り響いていました。
このときのオール日大の応援団の団長は経済学部4年の中川君でした。
(後日の事ですが,彼中川君は、なんと経済のバリケードの内部を大胆にも一人で堂々と視察にきたのです。入れるほう(経闘委)も間抜けな話ですが,入るほう(中川団長)も胆力があると言うか,恐れを知らぬバカと言うか・・・・本人は決死の覚悟で来たのでしょうが・・・・
ともあれ,経闘委の学生の案内つきで隅々まで見ていったという話です。
彼いわく「ふむふむ、よくできている。」と感想まで漏らしていったそうです。
案内した経闘委の当の学生がその直後,敵側応援団の中川と知って地団駄を踏んで悔しがったが,そのときにはもう後のまつり,中川君は全ての視察を終えて、日大本部に引き上げたあとでした。
こういった風変わりなゲストがかなりの数いたようです。
(某付属校のスパイ教師Y保田<やすだ>もそうでしたがその時には,捕獲しました。)                    

臼田君は精力的に議事をこなし,次々に執行部不在の間の懸案事項を処理し,学校側の都合のいいものを当局に上奏していきました。
日大右翼主導による当局追随へラへラ体制とも言うべき恥ずべき期間でした。
1966古賀執行部,1967藤原執行部と続いたうるさい学生会執行部相手に手を焼いていた当局にとっては最もやりやすい時期でした。 

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1967(S42)5・22
要望書
「日本大学経短学部研究会一同(代表責任者臼田)
昭和42年度研究会運営費借用の件
今般、日本大学研究会一同は別紙連署のもとずき学校当局より「研究会運営費一部暫時借用」をいたしたく思います。

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当時の上奏公文書の一部(現物) <
要望書  署名1  署名2 >

 

でもこの研究会責任者会議に結集していた意識的学生たちはいつまでも右冀主導の元に甘んじていませんでした。
この研究会責任者会議にいた多くの学生がこの時の屈辱の経験をバネにして後に次々に決起していったのです。 

              

反撃ならず 黒雲おおう経済学部。われらの自治、壊滅す。1967年

やられっぱなしでおくものか!!とは思ったものの・・・・
反撃のきっかけがないのです。まるで暗い雲が学内を覆っているようです。その後も永遠に続くかのように思えたものです。
このまま圧殺されてしまうのか??
絶望と焦燥の毎日が続きます。
学内の学生自治権は完璧に消滅し、学部当局とその走狗の体連右翼が完全なる支配権を掌握しています。

私たちはこの時の屈辱感を今でもはっきりと思い出す事ができます。

話は余談になりますが、2002年の現在、バラバラにされた私たちが各自置かれている社会状況も似たものであるな?とふと思ったりもしています。
世の不正と抑圧に対してなぜ立ち上がらないのか?
団塊は世を動かす力を持っている筈なのに?
そんな声もチラホラと聞こえてきます。

まあ話がそれましたが本題に戻りましょう。

屈辱的で抑圧に満ちた学園の内外で少しづつではありますが、動き出した者たちがいました。小グループに分かれて地下活動を行なおうとする者もひそかに動き始めたようです。
経済学部8階の研究会の部室でヒソヒソと、各クラスの教室の片隅でコソコソと地下の大食堂の目立たぬ所でボソボソと、また、学外のアジトで声にならぬ声なき声が囁かれるようになりました。
「なぜ立ち上がらないのか?」
中には大声で叫ぶ者もいましたが、みんな表面上は見て見ぬふりをしていました。
日大生はまた昔よく言われたように「無気カで大人しいブロイラ一」のような存在に戻ったかのようでした。
「困ったもんだ。」こんな声がどこからか聞こえてくるようです。

●大学の自治とは?
●学生の自治権とは?
●大学のあるべき姿とは?
●学生の自治権と学問の自由は早稲田慶応などの他大学並みで満足すべきものか?

それらは他大学には昔から優れた議論があったようですが、かっても現在(1967年)も日大には存在しなかったものばかりです。
私たちはかつて持っていなかった物を望み、他大学の学生が持っている以上の物をこの時望んだのです。
私たちはそれを「学園民主化・自治権奪還斗争」と名づけました。
今見るととても穏やかなスロ一ガンですね。
当時の日大はこんな当たり前の事が禁止されている大学でまるで文字通リ監獄の如き大学だったのです。

また脱線して当時の学内状況を一つ・・・

当時日大ではマルクス経済学の学習が禁止されていたのです。
信じられない事ですが、大学の経済学部でですよ。
ゼミ大会で、「独占資本」などと言うとそれはマル経の用語だと指摘されたものです。
これは筆者の実体験です。

 当時学習できたのはケインズ始め近経のみ。我が山県ゼミは今では名高いシュンペーターの景気循環論をやっていましたが、これもどちらかというと左寄りと言われ小さくなってやってました。
 なぜならば,この理論はマルクス理論とケインズ理論の比較の上に成り立つ物だったからです。
 どうしてもマルクスに言及しなければなりません。
 ちなみに先生は当時若手で学生側に比較的同情的だった今は亡き中山靖男教授でした。
 お悔やみ申し上げます。

 中でも自治権については、つまリかって持たされる事のなかったものを大学からもぎとり、自分たちの物にするというものです。
 理想的な大学像を探求したガリ板刷りの粗末なパンフが秘かに回覧されてゆきました。
 ほとんど読めないような汚い字で書かれたおそまっなガり板印刷のものを学生たちはむさぼるように読みました
 この期間以後の徹底した学習によりその後の学生側の斗争路線が確定したのです。
 それはその後の学生委員会議長団の形成、そして待望の1968学生会秋田執行部の成立の時まで継承されていったのです。
徹底した暴力弾圧下をかいくぐってのねばり勝ちの成果でした。
 後に(全共斗決起後)、学生たちはこれら一連の斗いを「血みどろの3年間」という小册子にまとめ上げ、後の決起のための最も有効なカンフル剤として強力に注入したのです。


これは効き目がありました。
ちなみにタイトルの「血みどろ・・・」とは単なる形容ではなく暴力弾圧により流した文字通りの日大生たちの被害の血の事を言うのです。

日大斗争の全期間を通じて大げさで拡大された表現というものはありませんでした。
日大斗争は言葉で表現されたそのままの事が行なわれていたのです。
後世の諸君から見れば信じがたい事もあるかもしれませんが、全ては真実なのです。
今日のこの時点(1967年5月)でも経済学部を始めとして法学部、文理学部、理エ学部、商学部、芸術学部そして遠くは郡山エ学部の校舎などマンモス大学、オ一ル日大(=11学部12校舎)が右翼体連の完全支配下におかれています。
まあ一種の軍事政権下の戒厳令のようなものでしょうか?
表面上はそのようなものであリました。
でも見えない所では上述したように意識的な学生が懸命に抵抗の陣地を固めつつありました。
そしてまた、新たなる展開が伏龍のように潜んでいたのです。


参考:日大右翼体連とは?


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右翼体連の支配をはねのけよ!
  学生委員会議長団の形成

 

★迷走する学生委員会            2002-8-8執筆(元学生委員会議長団書記)

召集権者である執行部を失った学生委員会が、ついに学生委員自らの意思の結集で開催されることになりました。
でも学生委員が集まらないのです。何度も流会を重ねた結果,ついに学生委員会が成立開催されたのです。1967年(S42年)6月5日の事です。

 

執行部を失って学生自治が消滅、右翼の全学支配を許してから一ヶ月以上も経過しています。
学生委員が集まらなかったのには理由がありました。
他方では前述の当局御製の右翼主導の研究会責任者会議が即日召集され,ひんぱんに開催されていました。
これにはよく集まりました。
なぜならこの研究会責任者部会ではおりからの経済学部新校舎のクラブ部室の割り当てと,研究会予算が執行部不在の為,暫定的に借用という形で各研究会にばら撒かれることになっていたからです。

予算がなければ研究会活動に支障をきたします。
甘い餌が撒かれるところには人が集まります。いつの世でもそうですが…
残念ながら抵抗勢力の私たち自身がそこに出席せざるをえませんでした。
歯ぎしりするような悔しさと屈辱的な経験でした。

一方の学生委員会には甘い餌は一つもありません。
それどころか,出席者は当局からにらまれるばかりです。
恐怖政治下の戒厳令の状況を想像してみてください。

出席人数を数え,学生委員会の成立が宣言されました。
その日の委員会で3名の議長と2名の書記からなる5名の議長団が選出されました。
この議長団は執行機関ではありません。
その任務はクラス選出の学生委員と研究会選出の学生委員の総意をまとめ上げ,学生の総意を結集して,学部当局と対決し,真の学生の代表,真にたたかう執行部の登場まで,経済学部の学生自治を預かって、次にくる自分たちよりも優れたリーダーたちに渡すまで闘い抜くというものです。

そのためこれからのちの学生委員会は当局に対して非妥協,徹底抗戦の道を選びました。頑固なまでの原則的な闘いにこだわりつづけたのです。
そのために時間無制限の徹底した討論が重ねられました。数時間にもおよぶ討論で全員の頭が朦朧となるまで続けられていきました。

ある決議の採択がなされた時のことです。
その決議のあとで、今までずっと黙っていたある委員が突然手を上げて発言を求めました。
「その決議文は論理矛盾しているよ」全員注視の中で彼は小声でそう言いました。
議長団の後藤臣彦君が大声で,「ああっ,本当だ!!」そう叫びました。
さあ,大変です。長いやり直しの議論が始まりました。延々と続きます。おおむねこの学生委員会の議論はこんな風でした。迷走に迷走を重ねた結果,何とかまとまっていくのです。
徹底した議論が交わされました。妥協なき議論です。

長い議論の果てについには体育系の委員などは何故かトイレに中座するふりをして退席していく者もありました。
ということはこの委員会の議論のすべてが当局に細かいところまで筒抜けに聞こえているということを意味しています。それもリアルタイムでの筒抜けです。
でも、こんなに長時間,こんなに大勢の学生が、こんなに真剣に議論した時期はありません。これはのちの全共闘の直接民主主義の徹底議論の伝統の始まりだったかもしれません。
何しろ自らの運命を託す「たたかう執行部」を失い、自らの運命を自らが切り開かねばならなかったからです。
激論の結果,ついに当局に対して7項目の要求を突きつけたのです。

1967年6月23日です。あの歴史的200mデモに打って出た時の,一年前のことでした。

後日,この時期の事を誰かが,揶揄してこう言ってました.
「後藤(臣)が後藤(健)を批判した時期だったな」

★当時の議長団のお仕事は……

学生委員会の議事の進行と決議とりまとめ。
決議文を清書して当局にお届け,というか一方的要求のつきつけ。
そして場合によっては多数メンバー同行でゾロゾロと学部学生課や指導委員の教授へ要求交渉。まあ,押しかけ団交のことですが……
そして度重なる流会の対策として学生委員全員への出席要請はがきの郵送。これが大変でした。ほとんどこの作業に追われたのを覚えています。宛名書きで指が疲れること…

★この時期の委員会での逸話をひとつ紹介すれば……

石垣鉄平君が議長を勤めていたときです。
彼が議事進行をしていたときのこと,その中で初めての聞きなれぬ新しい言葉,
「当局が我々にゲヴァルトで望むなら,我々もまたゲヴァバルトで対抗しよう」
とドイツ語の発音で発言しました。
彼一流の眉を下げて,物静かに全員に語りかける口調です。
このとき以来、学内でゲバルトという言葉が使われるようになったのです。
この言葉は以来全共斗運動の期間を過ぎた今でも使われています。

 

以下は,当時の学生委員会議長団作成の事実経過のビラ。
      1967-6・5〜6・28まで

--------------------------------------------------------------------
1967‐6‐5(月) 学生委員会
   議長団3名(大野照夫、石垣鉄平、後藤臣彦)
   書記2名(廣瀬幸一、鈴木一雄)を選出。   
広瀬幸一
   議題決定
    ○執行部解散処分の件
    ○暴力事件の件
    ○学生証検査,西入口閉鎖の件
    ○日大新聞未配布の件
    ○執行部補充選出の件}
   掲示要求承認さる。

1967‐6‐9(金) 学生委員会
     出席 45 委任状4 にて流会。

1967‐6‐16(金) 学生委員会
     最初、日大新聞社(宮●、小●)と学生委員と討論。
     本日の議題である執行部解散処分の件に関しては審議の中途
     にて時間切れとなる。

1967‐6‐21(水)学生委員会
    議題
     ○執行部解散処分の件
     ○学生証検査,西入口閉鎖の件
    決議事項
     @集会クラス討論の自由を保障せよ。
     (研究会責任者会議における執行部問題の討論の保証を含む)
     A教授会,執行部,一般学生の三者公開討論会の開催を要望する。
     B教授会による学生会執行部の解散はありえない。
     C4・20事件の暴力行為者の処分を早急に出せ。
      今後,学園における一切の暴力を追放する。
    確認事項
     @4・.20事件調査委員会の中間報告要求。
     A学生証検査の即時撤廃要求。

1967‐6‐23(金) 学生委員会
    決議事項
     @学生証検査を即時撤廃せよ
      (付帯決議
       (一)今後学生証検査を行うことを一切認めない.
       (二)4月20日の時点で学生証検査をしていたにもかかわらず,
          他学部応援団系学生が学内に入ったことに関して,学部
          当局に抗議する。
       (三)4月20日朝からの学生証検査開始理由、ならびに、現在
          まで,検査を続行している理由を明確にせよ。)
     A新執行部選出はしない。
     B(処分されている、現、藤原)執行部を支持する。
       →以上,6月21日の学生委員会の決議事項4項目と,本日(23日)
       の決議事項3項目との合計7項目の掲示を要求。
       →当局に拒否さる。

 
 
     <6・23学生委員会7項目要求>

@集会クラス討論の自由を保障せよ。(研究会、責任者会議における執行部処分問題の討論の保障も含む。)

A教授会、執行部、一般学生の三者公開討論会を要望する。

B教授会による学生会執行部の解散はありえない。

C4・20事件の暴力行為者の処分を早急に出せ。今後学園における一切の暴力を追放する。

D学生証検査を即時撤廃せよ。(今後学生証検査を行うことを一切認めない。)

E4・20の時点で学生証検査をしていたにもかかわらず他学部応援団学生が学内にいたことに関して学部当局に抗議する。

F4月20日朝からの学生証検査開始理由並びに現在まで検査を継続している理由を明確にせよ。

     @4・20事件調査委員会の中間報告要求。

     A学生証検査を即時撤廃せよ。

  確認事項

     @新執行部の選出はしない。

     A執行部を支持する。

                        以上の掲示を要求する。

1967‐6‐28(水) 学生委員会 流会
     議長団、再度、7項目の掲示を要求するも拒否さる。



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   「やられたらやりかえす!」

      のちの日大全共斗魂はこのとき、いかんなく発揮された。

              いよいよ反撃が始まる。

    押され,押し返し,押され,また押し返す波状的戦いが始まった。

 

当局御製のインチキ=カイライ執行部代行(自称)の登場

 

★次の一手は当局が打ってきた。

学生委員会の非妥協的な方針に危惧を抱いた当局は思わぬ方向で動き出した。

1967年7月10日、追放された執行部のうち、比較的軽微な処分(戒告)を受けた為、学内で活動可能な残留執行部員の後藤●太郎君が独自に別の学生委員会を召集して,学生会執行部委員長代行を一方的に宣言したのだ。
さらに執行部代行として研修会の召集をも企画した。
ここに「議長団の学生委員会」と「(自称)執行部代行の学生委員会」という二つの学生委員会が学部内で並び立った。
当然の事ながら議長団の学生委員会は反発した。
後藤●太郎の召集した研修会のボイコットを学内に呼びかけた。議長団は呼びかけと同時にボイコットのハガキを学内の各位の自宅に向けて郵送した.。
即日、後藤代行は議長団を批判した。
これより先、両者は敵対関係となる。
「分断して支配せよ」今度も当局の分断索動は完全に成功したかに見えた。
さすがに日大当局とは、学生支配のプロである。
この時の分断支配の巧妙なやり方は30年以上たった今考えても、見事と言わざるをえない。
日大当局は、傀儡(かいらい)としての学生の使い方がとてもうまいのだ。
「学生による、当局の為の、学生の支配。」これである。


凍結されていた学生会予算は、ただちにこのG執行部代行に支給され、建学の基が急遽発行された。
研修会費用やその他傀儡執行部として必要な費用および、さまざまな便宜措置が当局により、G代行に与えられた。
活動期間、1ヶ月余だったこの代行執行部によって、かなりの学生会費が浪費された.。


1967・10・14土 後藤●太郎君自ら召集した学生委員会で決議 
@「後藤●太郎執行部委員長代行は認めない」これにより後藤委員長代行は失格した。

個人的な心情はどうであれ、当局の傀儡として動いたGK委員長代行が自ら召集した学生委員会の場で否決され、ついに自滅して以降、事態は急転回をしていく事になる。

以下は,当時の学生委員会議長団作成の事実経過のビラ。
      1967-7・4〜10・14まで

--------------------------------------------------------------------

1967‐7‐4(火) 学生委員会 流会
     議長団、再々度、7項目の掲示を要求するも拒否さる。

1967‐7‐10(月)
    後藤●太郎委員長代行の声明を出す。
    奥山中執委員長が、後藤(●太郎)声明を支持する声明を出す。
    後藤●太郎、研修会企画を葉書にて学生委員に伝達。
    その際,学生会名および委員長代行名を独断的に使用する。

1967‐7‐13(水)
    議長団「研修会ボイコットを」各学生委員に働きかける。
       (ビラ送付)

1967‐7‐15(金)〜7‐19(火)
   後藤●太郎君主催の学生委員と,研究会責任者の研修会が開催さる。

1967‐8‐28 
   後藤(健)研修会開催通知と議長団批判文、郵送する。

1967‐9‐8〜10日
    文京区本郷旅館「天龍」にて研修会開催。

1967‐9-28(火)
    後藤(健)、学生委員会ならびに総合部会を招集。
      議題
        ○委員長代行の件
        ○三崎祭の件
        ○その他
       しかしながら、本日の学生委員会は,定数に満たず,流会。

1967-10-5(木)
    後藤(健)総合部会召集、(出席者より)突き上げを食う。

1967-10-6(火)
    後藤(健) 学生委員会を召集するも,定足数に満たず、流会。
       この場においても突き上げを食う。

1967-10-14(土) 学生委員会(後藤●太郎召集)
    決議事項
       @後藤(健) の執行部委員長代行は,認めない。

        ●この間の経過参照資料(当時の議長団発行ビラ)

        ●議長団からの招請はがき

その後、議長団の学生委員会は次々に当局に対して挑発をくりかえしていった。
次の一手はこうである。
「大学祭を学生自身の手で!」
社研出身の秋田明大君がこのS42年秋の経済学部大学祭=三崎祭の実行委員長に満場一致で選出された。
だがこの一手は当局側のかたくなな拒否によってほどなく葬り去られた。
三崎祭実行委員会は時間切れによって自主的に解散決議がなされた。
学生側の完全敗北であった。
これまでの経過はすべて学生側にとって不利な事実の積み重ねであった。
だが,当局自らが仕込んでいた時限装置がまもなく発火することになる。
すなわち,藤原執行部に対する復学問題である。
無期限の停学処分とは,刑法における無期懲役と同様に終身刑ではない。
改悛の状あるときは直ちに権力側が慈悲を与え恩に着せ、釈放するものと日本では考えられ,また実行されているものである。
その実質的刑期は昨今問題視されているように意外に短いものである。
筆者はここで法学的な問題、刑法における無期懲役の問題を論ずるものではない。
あくまでたとえとして出したものである。本題に帰ろう。

その前にちよっとだけ寄り道を・・・・
    ●証言、当時をふりかえって・・・
    「三島校舎から経済学部に移行してからの話だけど、工レ
    べーターホールの前で「学生委員会に出てくれ」ってどなっ
    てる人がいるんだよね。
    ああ日大にもこういう事があるんだと思ってそれからずっと
    学生委員会を傍聴してたんだ。
    当時は僕はデザインに興味があって広告研究会に入ってい
    たんだ。
    ここがまた右翼の巣窟みたいなクラブだったんだけどまあ日
    大だからしょうがないなと思ってたんだ。」
    Q:「それが何であんな危険な執行部(68年秋田執行部)な
    んかに入ったんだい?」
    「それはね、研究会の先輩に言われたんだ。はいれってね」
    Q:「どうして?」
    「ぼく自身興味があったし、(右翼的な)クラブとすれば執行
    部へ送り込んどけば情報取れると思ったんじゃないの?」
    Q:「それでその後情報をあげたのかい?」
    「いやいや、忙しくなってそれどころじゃなかったね。そのまま
    日大斗争へ突っ込んじゃったからね」
    Q:「それでクラブとはどうなったの?」
    「そのままお別れだよ。もうクラブ活動どころじゃなかったからね」
    Q:「そうすると何かい?もしエレべ一タ一の前でどなってる人
    がいなかったら君はその後斗争にはかかわらなかったのかい?」
    「執行部には入らなかったかも知れないけどね,日大斗争はや
    ってたろうね、興味あったからね」
    以上執行部大槻君の証言ですが、その後(68年当事)毎日3時問の睡
    眠時間でがんばった仲問の話でした。

さて本題に入ろう。
いよいよ藤原委員長以下執行部のメンバーが復学を許される時が来た。

    その登校日の朝、筆者は偶然にも校舎一階ホールで登校してきた
    藤原氏とすれちがったのです。
    そのとき氏は前かがみでガックリと肩をおとしてゆっくりと床を見つ
    めながら歩いていました。
    「あ!」私はおどろいた。でも声をかけられずにすれちがってしまった。
    なぜか自分に負い目を感じたのと、その雰囲気があまりにxxxだっ
    たからです。
    私はついに目を合わせる事さえできなかったのです。
    そのすぐあとでふりかえってみると学生服の猫背の姿が遠ざかって
    いきます。
    その後姿に向かって一人声に出してつぶやいたもんです。
    「あんたの仇は絶対に、俺たちがとってやるからな・・・」と。
    もちろん氏には聞こえる筈はありません。
    そのすれちがいの瞬間が、その後、筆者のようなノンポりの学生が
    日大斗争にしゃにむに突っ込んでいった確かな動機になっています。

またまた脱線してしまったが、ともあれ学部に待望の執行部が戻ってきたのだ。
かくして復学した執行部が満場の拍手で迎えられ議長団はその任務を終え、めでたく解散した。
しかしながら今はもう11月・・…季節は秋。
この執行部はまもなく任期が切れる。

1967年藤原執行部の最後の仕事、次期学生委員(クラス委員と研究会代表委員)と1968年学生会執行部選出の準備にとりかかった。

     藤原執行部構成 1. 2.
     (復学メンバーです.一部復学が遅くなった
      メンバーは抜けています.元委員長証言)

水面下で熾烈な多数派工作がくりひろげられた。
味方の執行部候補のオルグと新人の活動家の発掘が急ピッチで成されていた。
また、別の場所では表の執行部の配置と裏の実行部隊あるいは支援部隊の配置とが戦略的に行なわれていた。
これらも、長い間の積み重ねの経験の成果であった。
我々はバラバラで対抗しても勝ち目はないと言うことを学習したからだ。

 

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1968年度学生会(秋田)執行部の成立

                       

1967−12−9
 昭和43年度、第一回学生委員会が開かれ新執行部が成立する。
 直ちに学生会費凍結が行われ、その引出しには多大の日数と細密な使途内容の明記が強要される。

1967年12月9日、いよいよその当日がきた。

   68年度学生会執行部選挙の日

  学生委員会の会場、委員数をカウントして委員会の成立が宣言された直後、外部からの妨害を警戒して議場閉鎖が実行された。4ヶ所の出入ロの力ギが内側より掛けられた。
 ガチャリッ!乾いた金属音が満員の議場に響き渡った。
         (注:筆者は、この時の施錠音を、その場の緊張感を、今でもはっきりと覚えている。それであえて加筆した。)
 全員の顔に極度の緊張が走った。
 いよいよ1968年度学生会執行部の選挙が行われるのだ。

 この日、この一戦の結果次第でその後の学生自治の行方が決まるからだ。
★執行部を右翼が握り、戒厳令続行の当局べったりの学生側の司令部を作ってしまうのか?
★それとも我々一般生が握り、この戒厳令体制への反撃を開始できるのか?
 まさに決戦の時であった。
 議長は藤原選管委員長である。
 次々に立候補者が立ち、抱負を述べていく。
 立候補者の中にはおおかたの学生委員から見れば、敵か味方かよく分からない者もいた。

 即ち筆者もその一人だった。
 その当時日大合唱団の団員であった。
 この合唱団というのは学部を超越したオ一ル日大の組織であり、日大本部直轄のクラブであり、その名も応援団同様の「団」である。
 おまけに多くの者が、学生服を着用していた。
 その為、大学べッタりのクラブであると周囲から位置づけられていて、我々もまたそう自覚していた団体であった。
 が一方では学部当局からは「歌声の集い」などを日常活動として主催していた為に、民青ではないかと疑われていた団体でもあった。(クラブの名誉の為に言っておくが,民青とは実は何の関係も無かった)
 板ばさみの存在であったのです。

 当時、同じような立場に立たされていた、いくつかのクラプがあった。
 オール日大雄弁会もその一つである。
 彼らもまた、学生服を着用し古風な弁説を用いる為、外見は極めて右翼的であった。
 後に彼ら雄弁会は学校当局追従の文団連(文化団体連合会)を解体し、自ら文団連斗争委員会となっていった。

 また、経済学部に釣和会という釣りだけを純粋に楽しむというクラブがあった。
 彼らもまた、後に決起の隊列に加わり、最後まで闘いぬいた。
 いわゆる「68−69日大闘争」後のアウシュビッツ体制下の悲惨な戦いを闘いぬき、1974年あの、血の弾圧=関東軍による襲撃事件「経済学部サークル会議襲撃事件」で社研らの諸君とともに、関東軍完全制圧下の暴力の嵐の吹き荒れる中、大学当局により強制解散の憂き目に遭うまで、この日大闘争をやりぬいたのである。
 2004年の今、あらためて、彼らの勇気とその行動を賞賛するものである。
ちなみに彼らの軌跡は、全共斗議事録にしっかりと記載されている。

 投票が行なわれ次々に新しい執行部員が決まっていった。
 秋田明大委員長はじめ,総勢17名の新執行部が形成された。

1967-12-15 日大新聞記事 
---------------------------------------------------‐-----
 
十七役員を決定
      二百日ぶり正常に戻る
          経・短学生会

      藤原執行部が解散し,事実上空白状態になっていた経・短学部
     学生会では,(12月)9日一時すぎから三十三番講堂で学生委員
     会を開き、四十三年度執行部役員を選出した。
      この日議場では,学生委員に対して学生証検査を行い,委員会成
     立後,すぐに議場を閉鎖、傍聴人も一切入場させず審議に入った。
      同学生会執行部員の総数は,十七ポスト二十二人、この日決まっ
     たのは十六ポスト十七人である。
      これで今年五月二日、4・20事件など一連の一連の活動に関して,
     執行部全員が処分されて以来、実に二百二十日ぶりに,正常に戻
     ったことになる。
      四十三年度執行部員は次の通り。
        委員長     秋田明大  (社研・三)
        副委員長    石田弘二郎 (経済・三)
        事務局長    石垣鉄兵  (経営研三)
        財務部長    田中良彦  (児研三)
        情宣部長    天野 章   (経済二)
        編集部長    楠木哲雄  (産経二)
        研究調査部長 新田勇耕  (経済三)
        文化部長    鳥越敏郎  (YMCA研・三)
        学術部長    日高利哉  (会計研二)
        厚生部長    水登光輝  (産経三)
        体育部長    加治 剛   (空手研三)
        庶務部長    鈴木一雄  (経済三)
        渉外部長    寺沢 ●   (綜研二)
        連合会派遣委員 黒川裕之 (経済二)
        (残り三人は執行部に委任)
        無任所      南保賢二  (経済二)
                  小金井幹夫 (産経二)
                  大槻利博  (広告研二)
        女子部長    坂井香予   (短大一)
        短大担当部長未定
 (注:後に池内博人就任)

     秋田委員長の話
      「前執行部の基本方針などは引きついでいきたい。
       また学生の要求を貫徹できる執行部を築き上げたい。」

   ===================================================        
    1968年学生会(秋田)執行部構成

 だが,学部当局は,学生委員会決議によって合法的に成立したこの新執行部を認めず、ただちに学生会予算と研究会配布予算を凍結した。

★さて執行部を作ってみたが、やることといえば・・・

 とりあえずは学生会室の整理整頓と窓部分のお飾りだ。窓に看板の紙を大書で貼った
 「暴力的弾圧をはねのけて学生自治権の確立を!」
 もちろんマジックの手書きである。
 これで格好はついた。
 ところが翌日か翌々日の事だった。
 学生課から呼び出し命令があった。
 当局日く「この暴力的弾圧という表現はよくないね。まるで学校側が暴力をしているみたいじゃーないかね。(まさに彼らは右翼を使って暴力を行使していたのだが..)それに字が大きすぎる。外しなさい」
 (え一?じ、字が大きいからダメだってえ一??何なんだ)そのときの感想。
 「暴力というのではなく[・・的]というのがついてるからいいでしょ?」
 まずは突っぱねた。

        
1967年晩秋の学生会室          2004年現在は,  
「暴力的・・・」云々の掲示は当局         学生会は存在していない。 
  により既に撤去されている          部屋は集会室となっている。
写真無断転載不可(けいとうい)

★次の仕事は学生会機関紙『建学の基』68年版の編集発行だ。
 我々は表紙の色を慎重に選び、あざやかな真紅とした。
 また学生課から呼び出しが…
 「この表紙の赤は刺激的だ。他の色にしなさい」
 「赤色がなぜいけないのか?」
 「赤はアカに通じるものだ。君たちは共産党と誤解されてしまうではないか?」
とても親切な当局のご指導であった。だが余計なお世話だ!
 ここではスッタモンダが続いた。
 (え一?表紙が赤いからいけないって?こいつら(当局)バカじゃないかと思ったよ。
 ヤクザのイチャモンと一緒だね。
=後日、当時執行部大槻君の感想)
 我々はまたしても突っぱねた。そのまま発行を強行する。

    *1968年度・
建学の基表紙 建学の基1 建学の基2

★当局の報復

 学生会室が黒服の右翼学生に包囲される!    2002-10-24執筆(68年学生会執行部員)

1967-12-20
 応援団系学生70名学生会室を包囲し、執行部員に対して恐喝を行った。

 恐怖の包囲状態だ。
 閉じ込められた者は室内で震え上がっていた。
 心底、震え上がっていた。
 次に何が起こるんだろう?
 だが何事も起こらなかった。

1967−12−26
 18〜20日頃出された陰謀的はがきに対するパンフ、また、今までの総括文が検閲を浮けその郵送が全面的に拒否される

 
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