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日大闘争ドキュメント 1967年
1967年度学生会(藤原)執行部の成立と4・20事件 |
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1967年度学生会藤原執行部、学生委員会において経済学部応援団解散決議、及び部室没収。 学生側、いまだ蜂起せず 建学の基表紙 建学の基1 建学の基2 建学の基3 1967年(昭和42年)1・18 1967・4・20 経済学部新入生歓迎会の会場に体育会学生と応援団が乗り込み羽仁五郎氏の講演を妨害、執行部学生に暴行を加え、歓迎会の解散を認める署名を強制。 その後,暴力を受けた執行部側が学内を混乱させた責任を負わされて解散させられ、処分の追い討ちを受けると言う信じがたいことが起ったのです。 我が目を疑う、典型的な日大型のすさまじい弾圧でした。 このときの学生弾圧は議場にいたすべての学生の前で白昼平然と行われました.あまりに露骨な事件でした。長年の学生弾圧になれていたせいか、学校当局はつい公然露骨に典型的な暴力弾圧を行ってしまったのです.
今度も処分により追放された学生が大量に出ました。 *4・20事件直後に撒かれたゲリラビラ、事件の詳細を速報している=出所不明ビラ
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第一回学生委員会 ●藤原執行部活動状況(当時の執行部による現物ビラ) ●ニセビラ表面 ニセビラ裏面(4・20事件当日に撒かれた右翼体連製のデッチ上げビラ)
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経済学部4・20事件ドキュメント 日大闘争史上の一大エポックとなった経済学部4・20事件の真相は、闇に葬られ今では完全に忘れ去られている。 8時15分より8時20分の間、本日の打合せ、及び実施要領を聞く。 8時20分より8時40分の間本館で受付検査 8時40分より9時40分の間2号館で受付検査 10時40分より11時40分の間本館で受付検査 11時40分より12時40分の間2号館で受付検査 12時40分より13時0分の間学生課にて学生会の執行部の写真をみる。 13時10分より会場に行き、初め1階、あとで2階にあがる。 13時30分より土屋君の挨拶(内容は騒音で所々聞えないが学校側を誹謗するものであった。次に立った藤原は、マイクの関係で声が騒音で消され、聞えなかった。 たヾ、司会者が少しマイクに近ずくように指示すると「最後に…」という言葉がマイクを通して聞えた。 休憩の時、放送室に行き、そこから9階の廊下をまわり、異常がなかったので8階に行き、便所の方に来てみると中から応援団の学生(バッジよりの判断)が出て来て、こんなビラが置かれていた、許可があったか、と言うのでビラを受取り、エレベーターのところまで来ると、橋本課長に会い、事情を話した。 ビラを学生課に保管後、8階に来るともう帰ったあとでした。すぐ学生課に行き待期していましたが、何の指示もないので、15時ごろより約1時間受付検査を実施した。 問 放送室のテープは回っていましたか。 XX 3人ほど学生が首をつっ込んでいたので、大分テープレコーダーは回っていたと思う。 (問) 事件の目撃者はいないか。 XX 岩○さんが見ていたと思う。 (注 アルバムにより前記応援団員は伊藤堅であることを確認)
木○氏(教授)証言(唯一の大学側の暴力被害者) 井手先生が、先に講堂を出て行かれたので井手先生に会い前後策を相談するために、2階迄行った。そのとき講堂室の前で吉村が羽仁先生をお連れして、立話をしているのに会った。ここでは失礼なので会議室へお連れする様指示した。指導委員長室に行き委員長に、学校の客だから指導委員長自身が会われて丁重に扱ったらと進言した。 それから井手先生と二階のホールで会い学生の騒動の取り静めについて委員長自ら出馬してもらったらどうかと、云われたので同意した。 そこで吉○先生を連れて、学生会室に行き混乱をとり静めようと割って入った。(この段階では暴力はなかった しばらくして、伊藤が「何故、ビラをくばるのを許可したか」 私は「それは分らん。不許可な文書であり、許可がなければ、ルール違反である」と云った。又、或る学生が、北村が座っているのを見て、目をなぐった。何故暴力をふるうかと、右腕を掴まえたが、とうゝ逃がしてしまった。 まもなく豊○が、呼び込まれ色々聞かれたのち、数人の学生に集中攻撃を加えられ「みぞおち」をやられ、ぐったりとたおれたので、彼を助けようと入って行った。(腰から下は蹴られていた このとき暴力行為がはげしく行われた。 そのあと、伊藤が「先生がゼミで教えたんだろう」「学生会の指導は先生がやったのだ」などと云っていた。 私は「執行部とは学生指導面で接している。ゼミではそういうことは教えていない」。このとき後から、先公やっちゃえと声がかかり、腕を取られ引きずり込まれ、又後頭部をやられた。 暴力がおさまってから、数人の学生が負傷しているので、手当をするため医務室に電話した。その後、岩○・田○先生と交替した。 問) 水道橋でビラが出たというのは伊○ですか XX そうです。 (問) 先生が豊○をかばったとき、後から椅子でやられましたか。 XX それは記憶していない。 問) 伊○は暴力をふるわなかったか。 XX ふるってはいない。暴力を行使した学生は誰か分りません。 (問) 伊○が、先生を確認するような形になったのですネ。 XX そうです。 (問) 豊○に関して暴力をふるった学生は、彼が何者であるか理解していなかった訳ですか。 XX そうだと思います。というのは何者だと云っても、執行部ではないと云っていたか、彼かあまりしゃべらなかったから (問) 先生を殴った学生を知らないか。 XX ちょっと分りません。教師に対し暴力をふるったというショックが大きかったので確認できない。 (問) いつまでいたか(学生会室に XX 静まるまでいました。 なお、申しそえますが、色の白い、衿足のきれいな、顔のしまった学生(注:故小俣君と思われる)が、豊○が執行部室で暴力をうけたとき、暴力を行使していたように思われる。 これらが大学側関係者の語る、当日のおおむねの事実経過である。 |
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1967(S42)・4・20当日ドキュメント (1967)4月20日、その日は、新入生・移行生歓迎大会が催される日であった。
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★経済学部、空白の学生自治 2002-8-2 1967・5・1 学生自治活動は全面禁止。全学は戒厳令状態となる。 ** 5・1の後日談: |
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学生会執行部の解体と、右翼体連の学内全一支配
学生会が・・・・執行部が学部から消滅した!前代未聞の事態が起こった 1967年5月 < ミ ニ 講 座 > それではもし皆さんがタイムマシンで当時に戻った際に迷わないように,いい学生服, ●いい学生服・・・当時の一般生、のちの全共闘・・・
●悪い学生服・・・右翼体育会系・・・
●脱線ついでに当時の学内外の状況を少しお話しましょう。 その時のやりとりです。 日大斗争が沈静化してからも長い間継続した有名な全日大検問体制の始まリでもありました。 ●第二は応援団を中心とする体育会学生による、彼ら言うところの=不逞学生取締りです。 不逞学生とは前述の当局の言う騒擾学生のちの全共闘のことです。風紀委員みたいな活動をしていました。 臼田君は精力的に議事をこなし,次々に執行部不在の間の懸案事項を処理し,学校側の都合のいいものを当局に上奏していきました。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
でもこの研究会責任者会議に結集していた意識的学生たちはいつまでも右冀主導の元に甘んじていませんでした。
反撃ならず 黒雲おおう経済学部。われらの自治、壊滅す。1967年 やられっぱなしでおくものか!!とは思ったものの・・・・ 私たちはこの時の屈辱感を今でもはっきりと思い出す事ができます。 話は余談になりますが、2002年の現在、バラバラにされた私たちが各自置かれている社会状況も似たものであるな?とふと思ったりもしています。 まあ話がそれましたが本題に戻りましょう。 屈辱的で抑圧に満ちた学園の内外で少しづつではありますが、動き出した者たちがいました。小グループに分かれて地下活動を行なおうとする者もひそかに動き始めたようです。 ●大学の自治とは? それらは他大学には昔から優れた議論があったようですが、かっても現在(1967年)も日大には存在しなかったものばかりです。 また脱線して当時の学内状況を一つ・・・ 当時日大ではマルクス経済学の学習が禁止されていたのです。 当時学習できたのはケインズ始め近経のみ。我が山県ゼミは今では名高いシュンペーターの景気循環論をやっていましたが、これもどちらかというと左寄りと言われ小さくなってやってました。 中でも自治権については、つまリかって持たされる事のなかったものを大学からもぎとり、自分たちの物にするというものです。
日大斗争の全期間を通じて大げさで拡大された表現というものはありませんでした。
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右翼体連の支配をはねのけよ!
★迷走する学生委員会 2002-8-8執筆(元学生委員会議長団書記) 召集権者である執行部を失った学生委員会が、ついに学生委員自らの意思の結集で開催されることになりました。
執行部を失って学生自治が消滅、右翼の全学支配を許してから一ヶ月以上も経過しています。 予算がなければ研究会活動に支障をきたします。 一方の学生委員会には甘い餌は一つもありません。 出席人数を数え,学生委員会の成立が宣言されました。 そのためこれからのちの学生委員会は当局に対して非妥協,徹底抗戦の道を選びました。頑固なまでの原則的な闘いにこだわりつづけたのです。 ある決議の採択がなされた時のことです。 長い議論の果てについには体育系の委員などは何故かトイレに中座するふりをして退席していく者もありました。 1967年6月23日です。あの歴史的200mデモに打って出た時の,一年前のことでした。 後日,この時期の事を誰かが,揶揄してこう言ってました. ★当時の議長団のお仕事は…… 学生委員会の議事の進行と決議とりまとめ。 ★この時期の委員会での逸話をひとつ紹介すれば…… 石垣鉄平君が議長を勤めていたときです。
以下は,当時の学生委員会議長団作成の事実経過のビラ。 1967‐6‐9(金)
学生委員会 1967‐6‐16(金)
学生委員会 1967‐6‐21(水)学生委員会 1967‐6‐23(金)
学生委員会 |
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1967‐6‐28(水)
学生委員会 流会 ページの先頭 |
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「やられたらやりかえす!」 のちの日大全共斗魂はこのとき、いかんなく発揮された。 いよいよ反撃が始まる。 押され,押し返し,押され,また押し返す波状的戦いが始まった。 |
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当局御製のインチキ=カイライ執行部代行(自称)の登場
★次の一手は当局が打ってきた。 学生委員会の非妥協的な方針に危惧を抱いた当局は思わぬ方向で動き出した。 個人的な心情はどうであれ、当局の傀儡として動いたGK委員長代行が自ら召集した学生委員会の場で否決され、ついに自滅して以降、事態は急転回をしていく事になる。 以下は,当時の学生委員会議長団作成の事実経過のビラ。 1967‐7‐10(月) 1967‐7‐13(水) 1967‐7‐15(金)〜7‐19(火)
1967‐8‐28 1967‐9‐8〜10日 1967‐9-28(火)
1967-10-5(木) 1967-10-6(火) 1967-10-14(土)
学生委員会(後藤●太郎召集) その後、議長団の学生委員会は次々に当局に対して挑発をくりかえしていった。 その前にちよっとだけ寄り道を・・・・ さて本題に入ろう。 その登校日の朝、筆者は偶然にも校舎一階ホールで登校してきた またまた脱線してしまったが、ともあれ学部に待望の執行部が戻ってきたのだ。 1967年藤原執行部の最後の仕事、次期学生委員(クラス委員と研究会代表委員)と1968年学生会執行部選出の準備にとりかかった。 藤原執行部構成 1. 2. 水面下で熾烈な多数派工作がくりひろげられた。
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1968年度学生会(秋田)執行部の成立 1967−12−9
1967年12月9日、いよいよその当日がきた。 68年度学生会執行部選挙の日 学生委員会の会場、委員数をカウントして委員会の成立が宣言された直後、外部からの妨害を警戒して議場閉鎖が実行された。4ヶ所の出入ロの力ギが内側より掛けられた。 即ち筆者もその一人だった。 当時、同じような立場に立たされていた、いくつかのクラプがあった。 また、経済学部に釣和会という釣りだけを純粋に楽しむというクラブがあった。 投票が行なわれ次々に新しい執行部員が決まっていった。 1967-12-15 日大新聞記事 藤原執行部が解散し,事実上空白状態になっていた経・短学部 秋田委員長の話 だが,学部当局は,学生委員会決議によって合法的に成立したこの新執行部を認めず、ただちに学生会予算と研究会配布予算を凍結した。 ★さて執行部を作ってみたが、やることといえば・・・ とりあえずは学生会室の整理整頓と窓部分のお飾りだ。窓に看板の紙を大書で貼った ★次の仕事は学生会機関紙『建学の基』68年版の編集発行だ。 学生会室が黒服の右翼学生に包囲される! 2002-10-24執筆(68年学生会執行部員) 1967-12-20 恐怖の包囲状態だ。 1967−12−26 |
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