決起への道 | 1958年 | 1966年 | 1967年 | 1968−1 | 1968−2 | 1969年 | 1970年 | 1971年 | 現 在 |
日大斗争ドキュメント 1968年1月〜6月前半 第一部 行動は、開始された。 |
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1968年が明け、学生会新執行部(通称=秋田執行部)が行動を開始した。 1968−1−25
1968−1−29
学生会側はただちに抗議して、看板の現物だけはとりもどして学生会室内に立てかけた。 ★執行部員の裏切りと離反,そして分断策動 しかし、思わぬところで事態は動いていたのだ。 筆者はこの時寺●の申入れをきっぱりと拒否した。 その後、秋田君本人にこの事を正したところ、彼はあっけらかんと言い放った。 念のために言っておくが彼(秋田氏)は昔も今も、一貫して無党派である。
★だがこれで終わりではなかった。 ★この時期、当局側は全ゆる手段で、学生側の切り崩しをはかっていた。 ★その結果、この時点で早くも学生会執行部は17名のうち5名が既に切り崩されてしまっていた。 もし我々がこの時、歴戦の活動家であったなら、客観的な情勢を分析して彼我の力量を計り、絶対的に不利なこの状況を認識したなら、いったんは後退して再起をはかることにしたかも知れない。 ★「我々」とはひとり学生会執行部をさすものではない.
ゲリラ的なアジビラをひたすら隠れて撒き散らす者、校舎壁面にペンキで「自治権奪還」などと落書きする者、エレベーターの扉に抗議文を糊でべったりと貼り付ける者。はがされてもはがされても懲りずに張ってあったビラの数は日ごとに増えていったものだ。
これらは当時はすべて出所不明のものだった。いまだにやった者が誰なのか、不明のものが数多くある。 ★数十年後に語った学部当局側の元学生課担当者橋本氏の証言がある。 ★三十年以上経って、やっとその張本人が判明した。 ★この時よりさかのぼること2年前、学部に移行してまもなく研究会の
それ以後、我々は一直線に決起への階段を駆けのぼっていった。 |
以下文中、赤色文字は、(注)で 茶文字は後入れ挿入文である。 お断り:1968・1969日大斗争の文中で↓ *事実経過の文言は,できるだけ,当時のビラ.・議事録よりそのまま転載している。 *ティーチイン・全共斗会議の内容は,現存する経・短学生会(経斗委)の「議事録」よりそのまま転載した。 そのため意味不明の個所があるが,ご容赦願いたい。 *その他、証言については,本人の証言をそのまま記載してある。 |
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★経済学部・学生会室襲撃事件 大学当局が右翼学生を使って集団強盗事件を働いた!
個人的なことですが、この議事録の盗難については,実はこの事実を他人に告げるのは初めてのことです。 ゲストの日高六郎教授、足止め、立ち往生 新入生歓迎大会の講演ゲストを日高六郎教授に依頼することが決定した。 石田君がとつとつと説明を始めた。 長い説明が終わったとき、教授は目を伏せていた。動かない・・・・ しばらく沈黙が続いた・・・なんともこちらの説明の仕方が悪い。 私たちにとって、あるいは教授にとって、長い沈黙ののち(実際は1分もなかったろうが・・・・) 日高教授はのちに朝日ジャーナルに、このときの事を次のような意味あいの記事として書いている。 11・22の出来事(=日大全共闘の東大進撃)は、この東京(帝国)大学の高名な教授を、当時ポン大といわれ、評判の悪い三流大学の弱々しい二人の日大生が迎えにいってから、8ヶ月後の事であった。 なお、前述したように、日高教授の日大経済学部大講堂での、新入生歓迎大会での講演会は、ついに実現しなかった。 学生会副委員長の石田弘二郎君の証言である。 |
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第二部 蜂起へ!
1 9 6 8 年 日 大 斗 争 1968年5月 決起、全共斗結成へ 当局の暴力弾圧下で、抑圧に抑圧されていた日大生は,追い詰められて,ついに決起した。
勝利祈願!ミゼット「日大全共斗号」(セイドウ号)
日大生は長い長い前段の闘いを経験してきた。 また、68-69の最盛期が過ぎたのちも、
★神田三崎町経済学部は当初設計より小さく新築されていた。 以前から学部内に流布されていた噂は真実だった。 ★日大20億円使途不明金事件発覚! 事態は急変を迎えた。暴力弾圧や言論封殺や学生処分、学生証検査など、学生自治への不当な干渉に抗議していた、学生たちの上に天から降って湧いたように大学の不正経理の問題が発覚したのである。 ★日大経済学部富沢会計課長失踪。
1968年5月23日 蜂起! 2004年現在
レポの学生が駆けてきて言った。 ★日大建学史上初の街頭学生デモ(200メートルデモ)の出発風景(写真) 最後に何を歌おうか?インターなんて誰も知らなかった…
校歌斉唱について・・・ 水すまし君です.「あの時はさー、隣の奴がインターを歌いだしたんだよ. ※ 5.23 経済学部と短大経済学部の学生会が再度、経済学部地下食堂ホールで抗議文撤去に対する抗議集会を開催。 ちなみに彼は当時右翼思想だったと言うことです. またそのとき隊列最前部では、「インターナシヨナルを歌え!と言う声がかかったんだが、まわりに訊いたら誰もインターを知らないんだよ。 これであの時、何故校歌だったのか?つじつまが合いました. 錦華公園2003年現在 デモ出発点 (写真)
資料によって、この間の大学当局、学生側の動きを再現してみよう。
代表を募って、学校側に、交渉しに行く。 |
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1968・5・25 秋田明大以下15名(経済学部学生会執行部および有志活動家)処分発表
1968-5−25(土)
赤字は「けいとうい」で加筆 |
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・8階に体連が集まり、下に直行してゲバルトをやるらしい。(理研の男)
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「株式会社=日大(ポン大)」経営者への警告 経済学部前では路上に学生があふれ返っていた。 文理斗争委結成。各学部集会。全学共斗会議結成。経済前集会。 「ゼンキョ−トって何だ?」 蜂起前後、全共斗の前線司令部の一つだった神保町「白十字」。 1968・5・28(火)
スパイ事件の発覚 情勢は煮詰まってきた。
1968・6・11(火) この日、大学当局に抗議の集会が学部正面前でひらかれていた。 信じられない事が、い、いま、め、目の前で起こっている!!! 危険な状況である. この日1・2号館の間で当局に対する抗議集会が開かれていた。 この日の学生側の死者、負傷者、今だもって不明。 三崎町の交差点では僕ら何人かで,救護にあたり,怪我のひどい なぜだろう?そういえば、警察の捜査も一切なかった。 何人かで後ろの入り口から階段駆け上って,突入してったんだよ. 「3階のベランダで,右翼が日本刀を抜いてるのを見たよ」 あのあと,警察が出動してからだが,学校当局が、裏口から 体育会OBや,学校職員が体連の学生を指揮しているのを見た 警官隊が出動したんだよね.学生たちは、犯人の暴力学生と |
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1968-6-11(火) 1968−6−11 「今日はあぶなかったな。これからはやっぱへルメットをかぶらにゃ危険だよ」 ヘルメットは各学部によってそれぞれ違っていました. ★最初のヘルメットは?(それは6・10には準備されていた) したがって経済バリスト突入のとき(1968・6・12)には,相当数のメットが揃っていた。
●ライトブルーヘルメット異聞 会議でメットの色の選定が行われた。 |
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角材=ゲバ棒も新調(神保町材木屋に特注,最初は旗ざおの寸法 ヘルメットの調達は(斗争の全期間を通じて)大変だった。 経済学部では,校舎占拠直後にまず規律が布告された。
写真(無断使用禁) 注:文中、経・短学生会とありますが、これは=経斗委のことです。
全共斗本部も占拠と同時に設置された。 1968-6-12 深夜 「敵襲!敵襲!」 夜中は閉鎖施錠です。
{古戦場跡ウォッチング}経済裏口見張り小屋と、その跡地 → ●「夜中に出入りするときは2階のべランダから縄ばしごを
敵襲!その2 *材木屋が火事だ!事件 ピーー!! 後日の事。 <全共闘正伝・予告>
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1968・6・12(水) 経済学部バリケード封鎖
<噂の真相> 1968-6-14(金) 日大本部突入,封鎖の実際 1968-6-18(火)
1968-6-19(水)
文理にて,午前2:00学生会議(右翼)約70名が学内に殴り込みをかけたが追い散らし,そのうちの一人を捕らえ,城西署へ突き出す。 全学集会 2:00〜。 1968-6-20(木) 経済学部講演会「日大改善案闘争」(昭和33年) 1968-6-21(金)7:00〜8:30まで本部の回答待ち集会を開くも,回答はこず。 経済学部講演会 国分一太郎氏「教育問題」(約500名。) 1968-6-22(土)2:00より,経済学部学生集会・討論。 2:15法学部行動隊60名デモ。 法学部で,映画「圧殺の森」上映(500名) 三島校舎では,2,000名デモを敢行し,24日ストライキ突入を確認。 農獣医学部ストライキ突入。 1968−6−24(月) 三島文理ストライキ突入。本館2回以上占拠、一階事務関係は封鎖せず。 1968-6-25(火)
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(*注)六学部自治会とは=日共民青系の集団、上記記述のように,
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談の証言者:F氏) 1968-6-26(水) 1969-6-27(木) 1968-6-29(土) この時点で,全共斗は11学部となっていた。 理工学部学生大会、共闘会議支持決議−−−新執行部成立。 ※68-6・18〜6・29までの事実経過は,経斗委発行の当時のビラより転載 |
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