決起への道  1958年  1966年  1967年  1968−1  1968−2  1969年  1970年  1971年  現  在
 日大斗争ドキュメント
            1968年1月〜6月前半

第一部 行動は、開始された。
 

1968年が明け、学生会新執行部(通称=秋田執行部)が行動を開始した。

1968−1−25
 陰謀的ハガキに対する声明文が
     @4・20事件について書いている。
     Aこれを出す事によってトラブルの起こる可能性がある。
      等の理由によってその掲示が拒否される。

1968−1−29
 毎年学生会で行っていた新入生を対象とした下宿周旋業務に関し、学校側でやるから直ちにその準備を停止せよ、と的場指導委員長より命令を受ける。


1968-2-5 学部当局により強制撤去された立看板

 強制撤去の理由(学部側の理由説明)
 
 @掲示場所に違反している。
  A不必要に大きい(ベニヤ板2枚)。
  B書体色彩が刺激的で誤解されやすい。

     学生会側はただちに抗議して、看板の現物だけはとりもどして学生会室内に立てかけた。
     小さく抗議文が張ってあるが、ごまめの歯ぎしりであった。

★執行部員の裏切りと離反,そして分断策動

 しかし、思わぬところで事態は動いていたのだ。
 その恐怖の日から数日後、筆者の自宅に同じ執行部員の3年生の寺●から電話が掛かってきた。
 執行部の中でも前向きで、なかなか頭が切れるなと思っていた男だった。外見は正義感に燃える好青年だった。
 電話のむこうで彼は言った。
「秋田と一緒にいたら危ないですよ」
「どうして?」
「秋田はML派ですよ」
「エムエル派って何?」
「全学連ですよ!」
「ゼンガクレン?」
「ゼンガクレンだといけないの?何か根拠はあるの?」
「ML派の集会に参加している証拠の写真があるんですよ」
「どこに?」
「学生課にですよ」
「君はそれを見たのかい?」
「見ました」
 寺●はついに馬脚を現わした。
 当局に直接通じている事をこの電話で自ら暴露したからだ。

 筆者はこの時寺●の申入れをきっぱりと拒否した。
 なぜかというと全学連の事もML派の事にも何の知識もなかったので、同意のしようがなかったからだ。いいも悪いも筆者には判断がつかない。
 もし筆者がもう少しその辺の知識があったら、この寺●の電話で少しは考えたかも知れないのだが・・・

 その後、秋田君本人にこの事を正したところ、彼はあっけらかんと言い放った。
 秋田「うん、時々集会には行ってた事があるよ」
 筆者「え?じゃやっぱり君はML派なのか?」
 秋田「いやそういう訳じゃないよ。集会といったって公園か何かでやってたやつで後の方にいたのをきっと写真に撮られたんだろうね」
 筆者「何だ、そうだったのか。当局に利用されちゃったね」
 秋田「うん、そうみたいね」

 念のために言っておくが彼(秋田氏)は昔も今も、一貫して無党派である。
 つい最近も(2002年)筆者に語っていたことだが、彼は「日大全共闘は普通の一般学生が作ったものでマスコミや世間が思っているような、特別な存在ではない」と証言している。

 

★だがこれで終わりではなかった。
 2週間後、「日大をよくするする某会議」名で学生会執行部を中心とする一部学生=暴力学生批判のデッチ上げの文書がバラまかれた。
 その発起人の一人になんと寺●が連らなっているではないか。
 思わぬ所にスパイが潜り込んでいたものだ。

★この時期、当局側は全ゆる手段で、学生側の切り崩しをはかっていた。
 ある執行部員は学部一階ホールの階段で学校職員や右翼学生十数名にとり囲まれて説得という名目で拉致されそうになって大声を上げて、囲みを破ってやっと逃げ帰ってきた者もいた。
 その時の行き先は学部学生課だったそうだ。
 また当時学生指導委員のメンバーの井手教授は自ら執行部員はじめ学内活動家の個々に面会を申入れ、一対一での説得を熱心に続けていた。
 ID教授日く「互いに、歩み寄ろう。そして、共に日大を明るくしよう」と・・・
 涙を流しての名演技であった。
 筆者もこの説得にあった一人である。
 だがこのダンディーで精力的な井手教授本人こそかって藤原執行部を処分して学生自治権を停止した張本人=経済学部教授会の強更派のメンバーの最右翼であったのだ。
 日大の教授連は腹芸がうまい役者揃いであった。

★その結果、この時点で早くも学生会執行部は17名のうち5名が既に切り崩されてしまっていた。
 ピンチである。
 だが・・・やるしかない!
 悩んだり、考えたりしている余裕はなかった。
 つき進まなければ自分自身が危ない!というところまで追い詰められていた。

 もし我々がこの時、歴戦の活動家であったなら、客観的な情勢を分析して彼我の力量を計り、絶対的に不利なこの状況を認識したなら、いったんは後退して再起をはかることにしたかも知れない。
 だが、もしそうした後退をこの時、我々がしたならば、後の全共斗の決起は無かったろう。
 幸か不幸か、いずれにせよ、我々は恐れを知らぬシロウトの集団だったのだ。
 客観的に見れば我々は明らかに暴発したのだ。暴発のあとは当り前に考えれば瓦解のみである。
 風前の灯であった。
 だが我々に選択肢はなかった。とるべき道はひとつしかない。
 進まなければ、破滅!!これである。
 我々はまっすぐに進んだ。
 恐れはあったが迷いは無かった。

★「我々」とはひとり学生会執行部をさすものではない.
 それは前述した研究会責任者会議のメンバーたちや、学生委員会のクラス委員他各団体のメンバー、そしてひたすら傍聴していた無名の者や、大勢の意識的学生たち全体の事である。
 のちの全共闘の核になった一群の活動家および広範なシンパの全体を指している。
 孤立した前衛による戦いなど、この日大の戒厳令状態の中ではありえなかった.
 一人一人が...それぞれが各々の場所から、声をあげる。
 そして行動を起こす!これである。
 それぞれが突出していったのだ.
 一見バラバラなようだが、各々がよく心得ていた。
 目的はひとつ、学生自治権の奪還だ。

 ゲリラ的なアジビラをひたすら隠れて撒き散らす者、校舎壁面にペンキで「自治権奪還」などと落書きする者、エレベーターの扉に抗議文を糊でべったりと貼り付ける者。はがされてもはがされても懲りずに張ってあったビラの数は日ごとに増えていったものだ。

 これらは当時はすべて出所不明のものだった。いまだにやった者が誰なのか、不明のものが数多くある。
 また学内のあらゆる場所で、ヒソヒソと大学の真実の現状をひたすら語って飽きぬ者。
 そういった学部当局にとって「困った人たち」が日々に出没してやまないのだ。
 当局はついに数々の困った学生の正体を最後までつかめなかったようだ。

★数十年後に語った学部当局側の元学生課担当者橋本氏の証言がある。
 いわく「はじめの頃、出所不明のビラを撒いていたのは(執行部である)君たちだろう。」と……
 この証言から明確になることは、学生会執行部のごく少数の者がいろいろと画策してやっていたという認識しか当局がしていなかった事を示している。
 当局側は学生側の広範な共同戦線を見抜いていなかったようだ。
 そういう意味ではこの時点では我々の方が一歩リードしていたと言えよう。
 告白すれば、実はこの件一つ取ってもその真実は何かということが、つまり出所不明のビラを何者が撒いていたのか、つい最近まで筆者たち当時の執行部の側もわからなかったのだ。

★三十年以上経って、やっとその張本人が判明した。
 戸部源房君(社研)と丸井雄一君(旧姓・当時綜研責任者)だった。
 筆者の追求に答えて、丸井Y君は次のように証言している。
「今だから言うがビラを教室の机の上に置いて逃げる戸部の姿を今でも鮮明に覚えている。コートのすそをひるがえして駆け去ったその姿をね……」
 全学戒厳令下での、発覚すれば処分覚悟の必死の行動だったそうだ。
 それほどこのゲリラビラは敵味方の双方に効いていたのだ。
 何しろ当時としてはとても過激なことが書かれていたからね。

   ★この時よりさかのぼること2年前、学部に移行してまもなく研究会の
   ある先輩から注意を受けた。
    いわく「君たち、部室に行くときは気をつけろ。あの角の部屋には危
   ない奴らがいるからな」と…
    角の部屋とは社研や綜研や理研の部室をさしていた。
    ある時、部室に行くとき社研のドアがあいて、そこから出てくる者と目
   が合ってしまった。
   「ア…まずい」 私はその場で凍りついた。危ない奴らと目が合ってしま
   ったのだ。
    その後、不思議な運命の導きで(私にとってこう表現する以外にない)、
   その危ない奴らと共に決起、行動するようになるなんて・・・・・
    自分自身がもっと危ない全共闘になってしまうなんて・・・・・・・・・・・
    そのときには夢にも想像もできなかったものです。(当時を振り返って)

 

 それ以後、我々は一直線に決起への階段を駆けのぼっていった。

 
  以下文中、赤色文字は、(注)で  茶文字は後入れ挿入文である。
   
お断り:1968・1969日大斗争の文中で↓
   *事実経過の文言は,できるだけ,当時のビラ.・議事録よりそのまま転載している。
   *ティーチイン・全共斗会議の内容は,現存する経・短学生会(経斗委)の「議事録」よりそのまま転載した。
    そのため意味不明の個所があるが,ご容赦願いたい。
   
*その他、証言については,本人の証言をそのまま記載してある。

★経済学部・学生会室襲撃事件

  大学当局が右翼学生を使って集団強盗事件を働いた!
  信じられない事件が起こった!

 一方、再び学生会室が包囲された。だが今度は、脅しだけではなかった。
 黒服の右翼集団が乱入してきたのだ。ロッカーを倒し、机の中身を床にばら撒き、重要書類とおぼしきものを全て持ち去った。
 もちろん、私物や現金もだ。
 襲撃の話を聞いて駆け戻った執行部員および有志活動家全員はガクゼンとした。
 「ない、あれがない.大変だ」筆者が血眼になって瓦礫と化した室内を探し回ったのは、学生会の議事録全3冊だった。
 3冊とも持ち去られていた。
 (しまったァー--……大変だァーー!)
 なぜ大変かというと、そのころ筆者は議事録の正確さを期すため、一人一人の発言者の氏名と発言内容を信じられないことに全て書き込んでいたのだ。一言一句もらさずに…だった。
 前年の学生委員会議長団の書記を勤めた一年間の経験が、筆者にこの異常な能力を身につけさせたのだった。
 そんなものが当局の手に渡れば、こちら側の情報がすべて筒抜けになってしまう…。それに誰がどんな発言をして、どんな思想性を持って何をしようとしているのかが手にとるようにわかってしまう。
 襲った右翼どもが馬鹿でごみ箱に捨ててくれるのを祈ったものだ。
だが、彼らの組織立った襲撃は当然のことに当局の意向どころか、日大本部、古田理事会の直接の命令を受けていたのである。
 その証拠は後日,明確につかむことができた。
 なぜなら我々はのちに、医学部病院を除き,日大本部はじめ全学部,全校舎を学生の自主管理下におき、当局の秘密をすべて暴いたからだ。
 その中には右翼学生の日当や弁当代までが日付け入りで詳細に記載されていたものも含まれていた。
 大学側の巨大な暴力組織,のちの関東軍の基礎は既にこのときに形成されていた。
 応援団や右翼体連どもはけして個人の義憤のために動いたのではない。
 当局の命令一下、組織的に動いていたのだ。
 ちなみに,これらの証拠物は2003年の今も現存している。
(写真)
 意図的に重要書類を狙ったものだった。
 単なる嫌がらせの襲撃でないのははっきりしていた。

              
                襲撃後の学生会室。窓ガラスは全て割られ、
                中はぐちゃぐちゃ状態であった。
                この部屋は、全共斗決起後、
                そのまま経斗委斗争本部となった。
                    (経済一号館3階南側)

 個人的なことですが、この議事録の盗難については,実はこの事実を他人に告げるのは初めてのことです。
 この失敗が筆者のその後の人生のトラウマになってしまったのです。
 それ以後一番重要なことは記録に書き留めないようになってしまったのです。
 でもそれは正解だった。
(あの9.4の前夜の会議での重要な部分はあえて記録していない。
 その後の経過を思うとこれは正解だったみたいですが・・・)


1968・4・20
 経済学部学生会主催の新入生歓迎会、不許可中止事件

 ゲストの日高六郎教授、足止め、立ち往生

 新入生歓迎大会の講演ゲストを日高六郎教授に依頼することが決定した。
 さっそく東大に使者が派遣された。
 執行部副委員長(石田弘二郎)と庶務部長(鈴木ー雄)の二名である。
 東大の赤門をくぐり、すぐ左手にある建物の二階か三階の社会科学研究所・新聞研を訪ねたときのことである。
 二人の日大生は、誰もいない会議室のような広い部屋で,所在なく待った。
 やがて、紺色のスーツを着た物静かな紳士が現れた。
 日高六郎教授である。
 名刺を渡し,初対面の挨拶を済ましたときだった。
 窓の外から騒々しい掛け声とシュプレヒコールの声が聞こえてきた。
 教授が私たちを窓の方へと誘った。
「御覧なさい。学生のデモですよ。毎日通るんですよ。騒がしいでしょう?」
 教授は窓枠に手をついて、じっと階下の学生デモに見いっている。
 その目は、口とは裏腹になぜか大変にいとおしげであった。

 石田君がとつとつと説明を始めた。
 日大の学内状況から始めて、学生の抑圧状況、応援団体連の剥き出しの暴力の事、前年の芝田進午事件の事、何が起こるかわからない不穏な情勢に立ち向かうべく、今学生が団結してやっと新執行部を形成して立ち向かおうとしていること、等々を必死で訴えた。
話の合間に教授は何度も深くうなずいてくれた。
 だがその内容とは、一言でいうならば
「何が起こるかわからない危険なところへ単身で来てくれ」
と頼んでいるのに等しかった。
 話が核心に近ずくにつれて、教授は机の表面を見詰めたまま・・・・・・になった。

 長い説明が終わったとき、教授は目を伏せていた。動かない・・・・
「・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・」
 我々の話が聞こえているのだろうかと心配になってきた。
「どうでしょうか、大変ご迷惑でもあり、何があるかわからない状況ですが,私どもの学校に講演に来ていただけるでしょうか。抑圧されて、苦しんでいる日大生の為です・・・・」

 しばらく沈黙が続いた・・・なんともこちらの説明の仕方が悪い。
 悪い状況だと言うことを言い過ぎたか・・・
 これでは断られるに決っているよな・・・・
 私は,無言で石田の顔を見つめた。
 彼もそう思ったに違いない,押し黙っている。

 私たちにとって、あるいは教授にとって、長い沈黙ののち(実際は1分もなかったろうが・・・・)
 教授はいずまいを正して、私たちの方に顔を向けた。
 そしてテーブルに両手を広げて置くと、小声だが静かにしかし確信に満ちた口調で言った。
「行きましょう、君たちの大学に・・・何があっても行きましょう」と・・・・

 日高教授はのちに朝日ジャーナルに、このときの事を次のような意味あいの記事として書いている。
「かつて私を迎えに来た”ひ弱な日大生”が、いま(68・11・22)東大構内に、学生運動史上”最強の軍団=日大全共闘”となって進撃してくるのを見てその感慨もひとしおであった」と・・・・

 11・22の出来事(=日大全共闘の東大進撃)は、この東京(帝国)大学の高名な教授を、当時ポン大といわれ、評判の悪い三流大学の弱々しい二人の日大生が迎えにいってから、8ヶ月後の事であった。

 なお、前述したように、日高教授の日大経済学部大講堂での、新入生歓迎大会での講演会は、ついに実現しなかった。
 大学当局の不許可一点張りと、右翼による大講堂占拠の徹底的な妨害工作によってだ。交渉途中、何度も教授を学内に入れようと画策したが、日大当局と右翼の妨害工作は執拗を極めかつ徹底的だった。
 結局、教授は近所のホテルに待機したまま空しく引き上げざるを得なかった。

 学生会副委員長の石田弘二郎君の証言である。
 彼はまた,この時の事を次のように証言している。
「ああ,日高教授の事か,よく覚えているよ。あの頃は、まだ大学が不許可といったら何もできなかったもんなー、蜂起前の学生は弱かったもんなー」と・・・・・

          (石田=後の経闘委初代委員長2003年5月証言)

 
 

第二部 蜂起へ!

 

 

 

 

1 9 6 8 年 日 大 斗 争

1968年5月 決起、全共斗結成へ

 当局の暴力弾圧下で、抑圧に抑圧されていた日大生は,追い詰められて,ついに決起した。
 まさに、「窮鼠・猫を噛む」である。

 

勝利祈願!ミゼット「日大全共斗号」(セイドウ号)
経済三斗委所属、公式?宣伝カー。

 

 

         日大生は長い長い前段の闘いを経験してきた。
                多くの犠牲者が出た。
        多くの者が涙をのんで学園から放逐されていった。
         それらの者たちはいずれも無名の者たちである。
              そして正しき者たちであった。
      これから始まる「全共斗の日大斗争」は、これら無名の者たちの
   犠牲の上に成ったものであることを、読者諸氏はどうか忘れないでほしい

          また、68-69の最盛期が過ぎたのちも、
       多くの者がさらに日大斗争を斗い続けたことにも
             思い至ってほしいのだ
        日大斗争とは、当局の20億不正経理の問題が
             あったから起きたのではない
         20億は、決起のきっかけに過ぎないことを
           肝に銘じて以下を読んでほしいのです

 

 

★神田三崎町経済学部は当初設計より小さく新築されていた。

 以前から学部内に流布されていた噂は真実だった。
 浮いた建築費の行方は何処?
 と思っていたら、新聞で日大の不正経理が摘発された話が載った。

★日大20億円使途不明金事件発覚!

 事態は急変を迎えた。暴力弾圧や言論封殺や学生処分、学生証検査など、学生自治への不当な干渉に抗議していた、学生たちの上に天から降って湧いたように大学の不正経理の問題が発覚したのである。
 学生側の当局への追及は火を吐くようなものに変わった。
 連日学部前で激しい抗議行動が繰り返された。
 ある日学生たちは意を決して、正面入口から、学生証検査を突破して学内になだれ込んだ。
 難なく突破する。
「なーんだ、初めからこうすればよかったんじゃないか」
 やりたければみんなでやればいいのだ。できるのだ。
 ということに始めて気がついたのだ。
 学内で抗議集会を開いた。当然無届集会である。
 もう当局に届けたりする必要はない。

★日大経済学部富沢会計課長失踪。
 後に潜伏先で逮捕、当時の新聞によれば共犯も逮捕、組織的犯人隠匿の疑いあり云々。…
 会計課出納係(理工学部)の女子職員自殺!

 

1968年5月23日  蜂起!
 経済学部地下の食堂ホールに集まって,当局に激しく抗議した学生たち,学校側は次第に追い詰められていった。
 するとどこからともなく黒服の右翼が忍び寄ってきた,

               2004年現在
 やがて右翼体連どもは露骨に暴力に訴えてきた。
 もみ合い,こずき,そして机に上り、両手を挙げて「暴力はやめよう!」両者を制止しようとした副委員長の石田君を壇上からひきずりおろし,彼のジャケットを真っ二つに切り裂いた。
 まるでそれが合図だったように一斉に体連どもが激しく動き出した。
 そして学生たちを殴る、蹴る、罵声を浴びせて追い立てて,校舎から追い出したのだ。
 追い出された学生のある者は,法学部に向かい,ある者は校舎外の路上にたむろしていた。
 後の経闘委委員長(当時執行部文化部長)の鳥越敏朗君は、水道橋駅の周辺まで歩き、待機していたということだった。

 

 レポの学生が駆けてきて言った。
「みんな錦華公園に集まってますよ」
 周辺に散開していた学生たちは、錦華公園に続々と結集していった。
 錦華公園での長時間の抗議集会の後,われわれは学部に向けて、デモンストレーションを敢行した。
 だがデモなんてやった事がない。
「どうしよう・・・」すったもんだの末に,「まず整列だ・・・」
 お行儀よく列を作り,学部に向かって行進することにした。
 写真にある通り,今見てみるとデモというよりもディズニーランドの行列のようなものだった。
「さあ,みんな並んで,並んで・・・・」と、声をかけて整列した。
 このデモ隊列の整列に当たっては、当時比較的大人だった執行部の水登君や、綜研委員長の丸井雄一君らの活躍が顕著だった。
 そして、はやりにはやっている学生たちを前列で押さえに押さえていた者の手が離れ、一斉に学生たちは初体験のデモンストレーションに撃って出たのだ。
 それは笛の音もなく、スローガンの声もなく、シュプレヒコールもない、「わっしょい、わっしょい!」という祭りのお神輿のような掛け声だった。

 この瞬間こそが,その後,日本全国を全共闘運動のルツボに叩きこんだ「日大闘争」の始まりの第一歩でした。

 ★日大建学史上初の街頭学生デモ(200メートルデモ)の出発風景(写真)

 最後に何を歌おうか?インターなんて誰も知らなかった…
 歌声が沸き起こった。
「日に日に新たに,文化ぁの花ぁーのー…」
 何だ日大校歌じゃないか?
 じつは、みんなこれしか知らなかったのです…


マスコミの言ういわゆる
「200mデモ」のコース
何が200Mなのか今だにわかりません。
錦華公園から学部までの距離は約600Mです。
では隊列の長さが200Mなのか?
計測した人がいたら教えてください。
ともあれ日大史上初といわれた学生デモでした。


学生会旗と学生服と白いシャツ姿,今見ると,右翼の集まりみたい。
でも,これが日大全共斗の一番初期の姿です。
その後スタイルはだんだんと変化して、最後におなじみの世間の
言ういわゆる,ゲバ学生の姿になった。
全共斗への脱皮というか、なんというか?

校歌斉唱について・・・
 上記記述が真実のところかと思い込んでいたところ、30年も経ってから
 別の証言者が現れました.

 水すまし君です.「あの時はさー、隣の奴がインターを歌いだしたんだよ.
それを僕が制止して「ふざけるな、日大生なら校歌だ」ということで、無理やり校歌にしてしまったんだよ.」

※ 5.23  経済学部と短大経済学部の学生会が再度、経済学部地下食堂ホールで抗議文撤去に対する抗議集会を開催。
 ホールは耳を傾ける一般学生で満杯となり、途中、動員された体育会学生100名程が通常通り暴力排除行為を始めようとするが一般学生からの暴力反対の罵声に躊躇し暴行を中止する。
 この集会に更に加わろうとする学生が地下への大階段に殺到したため、大学当局はこの階段のシャッターを封鎖し、正門裏の階段から学生を脅しながら全員を学外に排除する。校舎の外に出された学生約2000名は抗議のデモ隊列を組み、白山通りから錦華公園までスクラムデモとフランスデモを行う。
 これが世にいう日大200メートルデモである。この際、本部応援団員が、大学職員や体育会学生からのデモ襲撃を阻止する警備と称してデモ隊の側方を一緒に歩いた。
       (水すまし君の証言)

 ちなみに彼は当時右翼思想だったと言うことです.
 2003年の今でも見かけは、その顔といい体躯といい、堂々とした右翼みたいです.
 まー、日大全共斗の典型的な「単ゲバ」という感じでしょうか。

 またそのとき隊列最前部では、「インターナシヨナルを歌え!と言う声がかかったんだが、まわりに訊いたら誰もインターを知らないんだよ。
 そのとき隊列中央から校歌が聞こえてきたんで、最前部で水登君に肩車をしてもらって、校歌を歌い始めたんだよ」
 その時、校歌指導した学生の証言.

 これであの時、何故校歌だったのか?つじつまが合いました.

 錦華公園2003年現在  デモ出発点 (写真)


写真:  
その1   その2
★本邦初公開1968−5−23、日大初の学生街頭デモ
 いわゆる200mデモの出発。(写真:無断使用不可:けいとうい)

 

 資料によって、この間の大学当局、学生側の動きを再現してみよう。
 これは、1968年度学生会(通称:秋田執行部)の公式の議事録である。


 
「学生大会議事録」 (注:資料写真)        日本大学 経済学部・短大商経科 学生会

S43年4月20 (ママ)
  
学生大会   11:00〜  5階ベランダ   約600名

 2004年の現場、一面花壇で覆われている。

 顧問制・20億の問題を明確にしていく必要があるが、我々が今当面している問題、新入生・移行生歓迎大会の問題は、今だ、終わっていない。
 去年行った弾圧を、学校当局は隠蔽し、さらに、今隠そうとしている。
 再度、大衆団交を要求している。

 20億脱税に見られるような、学校側の、利潤追求による経営方針にとって、我々の活動は、非常に邪魔である。一連の今までの三崎祭、芝進等の弾圧に現れている。
 我々は対話ということでもって、今まで執行部はじめ各集会でやってきたが、ぜんぜん聞き入れられない態度、理由なき理由によって、拒否して、話し合いさえも拒んでいる。
 このような状況では、我々は、当然の経過として、大衆団交という手段に訴えざるを得なかった。
 そういう、我々みんなの要求さえも、当局は逃げてしまっている。

 昨日、一昨日にわたり、的場(マトバ)指導委員長に会う為、多くの諸君とともに2階へ行ったが、全然誠意ある態度を見せず、ついには数人の護衛に守られてコソコソと逃げ帰ったのだ。
 そこで、断固、理由なき理由を明らかにせよ。
 また、大衆団交を求めるべきだ。

 学内外の情勢によっても、いまや大学当局の教育者としての、不信の念によって、崩壊しつつある。
 それらの崩壊によって、我々は、真の姿をつくるようにしなければならない。
 我々は今こそ大学当局が、いかに不当であるかを知った。
 断固、そういうものに対し、抗議していくべきである。

 顧問教授問題は、研究会の中で、顧問の気に入らない活動をしようとすれば、顧問が、それに干渉できるのであり、もし研究会が、それに反対すれば、
(注:以下記述なし)

12:10〜15
    大即(オオツキ)先生、橋本課長、目良(メラ)氏
       「これは無届集会だから、解散して、届出を出してから、再度集会するように」(大即)

 学校当局は、我々の集まるのを集会であるとして、一方的に拒否している。
 そして、我々が待ってくれと言っても無視してしまった。
 我々はもう、このような先生方のやることに、任してはいられない。

 この場を、正式な集会場として認めろと、要求していくべきである。

 学校は、一方的に無届集会と言ってきた。このような場を持ったことの原因が何なのかを考えよう。
 なぜ我々はこのような態度に出たか。
 学校が無届というなら、今後、我々は、届出を出して、拡大総合部会なり、各大学生委員会にしていって、認めさせるようにしよう。

 あくまでこれは、みんなの自由意志により、日なたぼっこにきたのである。
 そこで自然発生的に、討論が生まれてきたのである。
 これは、学校側が無届であると、一方的に解散を命令するなら、これを、我々としては、拡大学生委員会などにして、届出をすればよい。


 日高先生は、この歓迎会に全面的に協力してくれるとおっしゃって、近くの旅館に待機している。
 学校の許可がおり次第、学内に入ってこられると、言ってらっしゃる。

12:35


この集会を保障せよ。  
  本日の歓迎会を、許可せよ。
            全員一致、決議

 代表を募って、学校側に、交渉しに行く。

 日高先生がこの近くの旅館に待機している。このように日大外の教授が我々に誠意を見せてくれている。然るに日大の教授は一方的に、この集まりを無届集会だとしている。

 このような正統な集会はあるか。ヘルメットも棒も持っていない。なのに教授たちは、これを無届集会として、又、我々の意見も何ら誠意を持って聞いてくれない。ここで我々の民主的学生の拠点としていかなければならない。
12:50
 
 この場にいる人が全員で、代表になって、指導委員長と大衆団交をすべきだ。断固われわれは、指導委員長のところは、行くべきだ。

 彼らは、しぼんでしまうのを待っている。ただ、消耗するだけである。
 全員でゆこう。
      全員で下へ行った。
12:55

1:30全員下へ下りていったあと、体連系9人、うち2人柔道?来た。なんくせつけられた。

2:20 「報告」
 自発的な集会は、届出をしなければならない。
 代表を送り出さない限り、ダメだ。
 4・20のような暴力事件が起こる可能性がある。
 民主的、平和的なものでなく、一部はねあがり的なものの暴力を、抑える為に、歓迎会を、行わせない。
 学問が暴力に色どられてはならない。
 日高氏は左翼と言っていない。(大即)
 一般的に言う左翼だ。
 私は的場先生の発言に責任はもてない。
                  ---的場さんと、大即さんの意見の食い違い。
 なぜ歓迎会をやってはいけないかについて、一言も答えていない。
                        ---以上大即氏
(橋本)
 決議文については、無届け集会であるから認めない。
           こちらが読んだ。
(一部はねあがりの、暴力を抑える為に、我々の正当な要求を抑える。)
           →暴力学生。
 第二自治会のほうからも、要望がある。(注:)
 4・20にやったら、暴力が起きる。---→∴避けたほうがいいんじゃあないか。
 
 5名代表を連れて来い。
1:30に的場師が来るはずが、今だに来ない。
                     ------以上報告

 
 

1968・5・25 
法、3号館前集会500名。
文理抗議集会。
経済学部前集会に5000名結集

秋田明大以下15名(経済学部学生会執行部および有志活動家)処分発表

(後日の事)

 驚いたことに激しく抗議したら、後日、処分は白紙撤回になりました。
 これには当事者たちもびっくり!
「おいおい大変だよ。処分撤回だとさ」「まさか,嘘だろ…」ってな具合でした。
 *かつての学生運動で処分の白紙撤回などという事は、考えられないことであったからだ。
 労働運動などでは裁判による判決での撤回はありうるが、今回の白紙撤回は、当局が学生の力を恐れるあまり、懐柔の為に、自らの意思で決断したものであった。
 史上まれなケースといえるだろう。
 少なくとも日大においては、あとにも先にもこれ1回のみである。
 実を言うと、我々は処分撤回を声高に叫んでいたが、その白紙撤回は想定していなかった。
 むしろ、処分は退学あるいは、除籍処分を想定していた。
 そうした場合、執行部なきあとの為に、組織化は二段構えになっていた。
 67年5月、藤原執行部が処分によって放逐されたあと、より頑固な部隊が後詰で登場し、自ら「学生委員会議長団」を形成して戦い抜いたようにである。
 「経・短学部の自治権奪還闘争」の組織化の秘密がここにある。
 より頑固で強力な一群の勢力が執行部の外側に広範に展開していたのだ。
 彼らこそ、長く粘り強い自治権奪還闘争の中心勢力の面々であった。
 全共斗結成後、彼らは一斉にその姿を顕わにしていった。
 1968年5月27日、午後3時30分の全共斗結成宣言の直後から百花繚乱の如くに結成されていった、個別の各斗争委員会が、彼らの正体である。

 研究室、研究会、同好会、ゼミ、各クラス、有志学生、その他の集団、または個人の面々である。
 これら多数の斗争委員会は一夜の気分で結成されたものでは無いという事がご理解いただけたろうか。
 日大の自治権奪還闘争は、あまりに厳しく、前述したように、一人前衛部隊(執行部)が先鋭的に突出して指導し、戦えるほど甘くはなかったのだ。
 強固な中心部隊(学園内各層に展開する部隊)を取り巻く、更に広範な学生大衆に依拠しなければならない理由が、ここにあった。
 この闘争構造は、実に長い闘いでの経験と学習によって、必然の結果生み出されたものであった。
 また、当局による、活動家の処分は遅きに失していた。
 この「処分撤回」によって、当局はその後、学生の処分の機会をついに失ってしまったからだ。
 いずれにせよ、これ以後の全共斗学生にとって、処分も、暴力も、逮捕も、何の効果もなくなっていたのは、衆知の事実である。
 権力による罰とは、効果があってのものであろうから・・・・効果の無い刑罰は、それはもう刑罰の意味をなさない。
 日大生は、かくして、ルビコン川を渡ったのだ。みんなでね・・・・



以下、現場メモ(「現認報告=日大闘争」{経・短学部学生会<経斗委>記録ノート}よりそのまま転載)

1968-5−25(土)
10:10 学内に入るとすぐに学生課、教務、管財の者が来て、2階へひっぱていこうとした。
   その際管財の職員は、えり首をつかんで挑みかかってきた。
   「2階指導委員長室へ行けば学生会室のカギもわたす。」
   「来ないなら出ていけ」
  ○正面タイルに15名の自宅謹慎処分出る。


 
              


     左の者の行為は本学部の秩序を乱しているものと
     みられるので,自宅謹慎を命ずる

    経済学科
       秋田明大
(68執・前三崎祭実行委員長・社研)
       石田弘二郎
(68執・茶道研)                
       田中良彦 
(68執・児研)    
       鳥越敏郎 
(68執・YMCA研)
       鈴木ー雄 
(68執・前議長団・合唱団)
       戸部源房 
(*社研)
       丸井雄一 
(*総研・責)
    産経科
       石垣鉄平 
(68執・前議長団・経営研)
       新田勇耕  
(68執・方法論研<民青細胞>)
       水登光輝 
(68執・社研)
       石黒嗣崇 
(*前67執)
       天野  章 
(68執・方法論研)
       楠木哲雄 
(68執・大沼ゼミ) 
       大槻利博 
(68執・広告研) 
    短大一年
       池内博人 
(68執・短大)

               五月二十三日
                   経 済 学 部
                   短 期 大 学 部

                              赤字は「けいとうい」で加筆
              
 蛇足:上記赤字表記は、前年活動暦、または出身母体である。
                    68年執行部=12名、前年活動暦の者=4名、68執行部外=3名、
                    先進的な学術系クラブ出身者=7名、比較的穏やかだった文化
                    系クラブの出身者=5名
右翼的なクラブ、広研=1名。
                    左翼民青=1名。
                    当時の学生側勢力の性格が、よくわかる構成となっている。
                     なお、この処分者リストには出ていないが、68執行部17名
                    のうち、処分対象外者5名 このうち2名はその後、不明。
                     残り3名のうち、1名は体育部長K君(空手部)、当然処分対象外
                     執行部員のうち1名は、裏切り、敵側に組した。(別記の寺●君)
                     何らかの当局による分断策動の働きかけの痕跡があった。
                            (処分者、某メンバー証言。)

 
 

   8階に体連が集まり、下に直行してゲバルトをやるらしい。(理研の男)
   橋本
(注:学生課長)が上の話をしていた。
   ・丸井が2階に引っ張り込まれた。
   ・体連の動きはなかった。
10:00〜
   ・パンフ「学生諸君に告ぐ」が配布される。
   ・楠木つきとばされる。
   セントルイス(にて待機)
10:15
   地下ホール両方開いている。
   受付:個人アルバムと照らし合わせてやっている。
(注:正面入口学生証検査の事)
   対体連    研究会の道
   総括ビラを頻繁に たえず的確に知らせる。
   学校当局の窓口は誰なのか?
   ・昨日学生委員会を開かせてくれと言いにいった。
   近江谷
注:教授・指導委員会メンバー)は「処分を出さないような方法でやりたい」といっていたが、
   馴れ合いになってしまった。
    (寺沢、南保、小金井)
   研究会室で話し合い、デモが占拠するからという事で流れたから、あせって2階へ十数名でいった。
    (社交ダンス責、岸釣和会等)
11:45分
   体のでかい奴ら(相撲?)等が占拠
   1階エレベーター前   20名
   8階のでっぱりで監視
   (法)の屋上でみはり
  
体連は、講師室に橋本(注:学生課長)が集めているらしい。
   文理の一年が裏へ集められた。合気が2階と連絡をとっている。
   各階に配置
   吉寛(注:経済学部長=吉田寛)、小林幾、休講。  午前、ほとんど休講。
12:00
   先生が教室を回り「今日の(集会)には出るな」
12:10
   石黒(注:前執行部員)が学校側につかまって、三橋が証人としていっている。
   「昨日のデモに関係がない」といったら、今までの一連の集会で発言しているからだ、とのこと。
   体連200名。
   法学部に500名集まり、集会を持っている。
12:20
   2階からマイクで妨害。「無届け集会だから解散しなさい」(橋本学生課)
12:30
   地下の椅子に百名が座りこんでいる。 |
   1階5〜60名 教務課の前。       | 体連
   各階少しずつ。               |
1:20
   法学部500名が経済の前へ来る。
2:50
   文理、200名到着。
3:00
   正面シャッター下りる。ジグザグ開始。
   授業はやっている。
   法学部の前、進行中、ジグザグで・・・・
   体連が、あとから追っかけてる。
2:30〜
   警察が「都公安条例違反だから、すぐに散れ、でないと秋田委員長を検挙する」
3:30
   本部前到着(正面)
   体連は本部前にはいない。
   2号館の前で一人殴られ、重傷。→重体、警察で調べ中。
   デモを阻止する奴ら→殴る、蹴る(自民党青年部)
   本部シャッター下りている。
   法1号館シャッター開いている。
   昨日より多い、2,000名以上。
   記者も活発に動く。
   記者(NHK)が本部へ入っている。
3:50
   本部の回り,体連いない。
   1号館,2、3階やじる。
   ポリ、交通整理。
   座り込む。
   月曜日、12:00〜 
 (注:確認事項、行動予定の確認)
     
各学部ごと,決起集会を開く。
     共闘委員会設立!
(注:共闘会議設立の方針)    3:50
   火曜日    1:00〜5:00
     経済学部大講堂
     全学の団交を要求する集会。
4:05
   各学部分散して,総括集会を行う。
        三派の2人つかまる。ヘルメットを持っていて。
4:40
   経済、文理、錦華公園着
   全学生に対する弾圧をやめよ!
    ・不当処分を撤回。
    ・公開討論会を開け
                 4:55現在
5:05
   解散
   クラス,ゼミ等に入って話し合う。
   月曜日、12:00 経済学部集合。
                 (この日の模様については、記録写真参照)


1968−5−26(日)
  執行部会議 ほうらい館 都電専修大学前旅館
(注:この日の宿泊先)
   
獲得目標
     一、学生証検査の即時撤廃、集会の自由
     一、不当処分即時撤回
     一、公開討論会の要求
   スローガン
     一、自治弾圧をやめろ・・・学生自治に対する弾圧を許すな
     一、20億不正事件を追及しよう

   (活動家会議方針)
   クラスゼミ単位の斗争委員会
   全学協斗(注:)または、全学集会はまだ早い。
   各学部の組織化が必要。経済が主体。     

   20億の問題解決は、民主化でしか具体的にできない。
   各学部共通--→20億
   法---不正選挙
   経---集会、処分等
   各学部とも具体的に違った形で表している.。
   しかし根源は20億と同一である。
   20億共通の場では共闘できる。
   しかし各学部の民主化は、それぞれが勝ち取る。
   相互援助で・・・・

   各学部または、支援して斗う事--@
   全学集まって斗う事--A
  ◎雨が降った場合が困る。
   代表が入り学校と話す。
   経済学部支援統一集会。
   道路使用許可
   学校内部は2つに割れているらしい。
   公開討論会要求  代表20名
   議場:石田、鳥越、水登、楠木、石垣
    団交:秋田、鈴木、新田、田中、天野、池内、大槻
    30分で打ち切り
    2:00までにめどをつける。
   他学部が来たら2号館のほうへやる。
   経済は、本館側。
   明日、9:30セントルイス 他へTel
(注:電話情宣)
   
27日-10:00セントルイス(集合)

1968−5−27(月)<事実経過>
10:00
(注:セントルイスに居を構え、情報収集と公衆電話による電話情宣が始められた)
11:15 本部の前庭のところに、材木でバリケードしているらしい。
      (注:略図付きのレポ情報が入った。次々にレポ学生による情報がとびこんできた。)
     ・本部と教職員組合が話し合い 
            活動家を追い出す
     ・体連ほとんど学生服着ていない。
     ・団交2回   袋20枚回す。
(注:カンパ袋の事)
     
・2時までに2回団交をもつ。
     ・西神田公園
   
11:xx  (経済1号館)地下、体連20名くらい 
12:07 5〜6名地下へ(当方メンバー潜入) 
12:50  200名  芸術   |
             医学  | 自治会来る。
1:30 代表20名団交  
1:45 橋本、大即、目良、柳沼、工藤が  | ---→当局内部分裂だ。
    的場指導委員長、近江谷、     |
1:50 寺沢、南保、セントに(上記情報レポ)
1:50 要求書読み上げ


  要 求 書
 我々全学生は過去の学校当局の一連の弾圧に抗議するとともに、以下の事を要求する。
 一、学校当局は、即時、学生証検査を撤廃するとともに、学内での集会を認めよ。
 一、不当処分を即時、全面撤回せよ。
 一、20億円、その他に関して公開討論会を要求する。
                  昭和43年5月27日
                      経済学部長殿


 (以下、経済学部当局との交渉内容)
 学生証検査をするに至った事情がどういう風にして、解消されたかで決まる。
 学生証検査はできるだけ、うちの学校の人に入ってもらって、学生の勉強が妨げられないということだ。
 学生証は絶えず持っていなければならない。
・他大学との関係は?
 法政なら法政から来て、受付でチェックすれば入れる。授業以外のことをやる恐れがあれば、用件を聞いて、そのようをやれば入れる。
 学生証検査・・・・がなされるに至った事情を考えると、学生が学外でデモをやり、秩序を乱したためにされたのであり、検査を取りやめるには段階的なものがあり、秩序を乱さないような状態に戻らなければダメ。
 学生証はたえず持っていて、出さなければならない。
 日大の学則があって、表現の自由を侵害した事実はない。
 「建学の基」等は事実を伝えていない。また、他人の名誉毀損だからまずい。
 そういう事を伝えてはいけない。その範囲内で指導していく義務がある。
・学生委員会の開催不許可の理由をはっきり述べよ。
 拒否理由・・・学生委員の選挙が済んでいない状態では、委員会を開くのはまずい。
 20億の件に関しては、学校側があとで見解を発表する。→学生委員会の選挙、検閲制度なら、訴えればいい。
 それなら取り扱ってくれる。
・検査について、一般的な条件が揃っていけば、止めるようになる。
 全学部の代表として、一つづつ問題を片付けていかなければならない。
 執行部が選管になっているのは慣行だから、まあいいが、選管で不正があった。一部の学生や、先生方から方向づけがあったことが報告されている。
 他学部の学生を入れないのは、聴講届の関係だ。
 20億に関しての不正はない。声明文を出して、教室で表明している。
・集会の自由は条件さえつければ認められる。(--届けとか)
(処分の問題について)
 自宅謹慎は処分ではない、措置だ。学則にはカンニングした場合とかの措置である。
 非常ベルを押した人が二人いる。

 20億事件について、使途不明金ではなく、法により、源泉課税もれである。私としては、それしか知らない。
 学部長が近日中に話し合いを持つといっている。
 我々は経済学部だから経済の学生しかいれない。今のところ経済の学生についてのみ責任を持っているからだ。
 学生の代表と、学校の代表の話し合いだ。
----全学生が入れるところを探して、今、検討中だ。
 20億円を研究する会か、責任を追及するかがわからない。
 全部の学生が入れるところがないんだ。
・学生の代表・学校の代表の公開討論
・場所は千人講堂
  第11条 秩序を乱すことがある場合、禁止または、解散することができる。
 一、学生証検査は撤廃しない。
 一、不当処分でないから、撤回するわけにはいかない。→教授会にかけて決める。個々人の問題。
 一、学校と学生の代表の話し合いを、学生の前で行なう。
===============================================================================
もう一度予備会談をする。
       何回でもやる。
2:40 1〜1,200名
     法1,000名、本部前座り込み
         600名立ち残り
      今日体連---剣道、柔道、空手。少林寺、
      土曜、文理、学内2、000

3:00〜 全学集会に切り替える。
      経済、法、理工有志連帯の挨拶。
3:05〜 3、000名に拡大。
3:15 芸術学部有志来る。
           新宿ホームでシュプレヒコール、600名
           御茶ノ水→神保町→経済
3:18 文理2、000人来る。
     経済、商、法、芸、理工、文理、 5〜6,000人
3:30 全学共闘委員会の議長---秋田
                 文理---田村

(注:5月25日に予告した共闘委員会の結成の方針=「日本大学全学共闘会議」がこの瞬間に結成された。
1968年5月27日午後3時30分ジャストの事であった。
 この瞬間以降、世間の言ういわゆる「日大紛争」なるものは、全共斗による「日大斗争」となった。)

3:40  29日に全理事を召集して,評議委員会を開く。   2部法・・・・4、000名
4:00  3,000名                          文理・・・井●・中●  社会学科  
4:20 経済出発→法,本部→理工                    社会学科、学文連
5:10 理工,清水建設敷地へ着く。               「父兄呼び出し」自宅謹慎
5:45 各学部ごとに分散                     呼びかけ文→スローガンの一致
6:00 解散                     25日、一、36億円の使途不明金を具体的に明らかにせよ。
         以上                     一、集会結社の自由を保障
                                 一、経済学部の不当処分撤回
   26日 6:00〜8;40                 一、全理事の総退陣
   ニューオータニ16F1h5,000円の部屋
   食事一人2千3百円(税,ビール含む)
   古田、永田、加藤、以下+15名      
     名---日大  加藤

  6:00〜8:00 完全シャットアウト  あと40分くらい、雑談(食事しながら)
   本部デモに囲まれたときの対策
   ・一人が「赤十字から、救急車を呼ぶ」
  古田「そんな必要はない。警察からパトカー呼べばいい。」
   ・本部にバリケード作って中に入ったら、学生を警察が逮捕する。
   その事は警視庁と話がついている。
   自宅謹慎はよい方法だ。
   他の学部も見習ったらどうか。
   「学生諸君に告ぐ」はよい本だ。
                                         以上、

上記関連情報
 (この会合では、)5〜6万使っている。 4、9500円---

   注:理事会反主流派通報者=●●氏より、執行部に伝達された即日情報(学生会、現認報告より転記)  

 「体連系学生が本部から、一人一日1、000円もらっている。」(体育学生K君証言)注:=当時、即日情報

 
 

「株式会社=日大(ポン大)」経営者への警告

 日大全共闘が結成される1日前、大学経営者たちは、高級ホテルで、酒を酌み交わしていた。その酒席の会の内容とは、上記のとおりである。
 この情報は即日、理事会反古田派の伝令によって、全共斗側に伝達されていた。
 敵側はまさに二つに大きく分裂していた。
 古田主流派と、反主流派(=加藤派)である。
 実のところ、「学生側の騒ぎに乗じて,20億使途不明金をマスコミ,国税にリークし、紛争に点火し、それを拡大したのも、この反主流派の大学経営の主導権を握らんとする陰謀の結果」だと言われていた。
 彼らは、その目的の為には、手段を選ばなかった。
 自らのイニシアチブを握らんとする為には、敵にまで身内を売る。
 腐りきった日大経営者側の、まさに、それの典型であった。
 このような卑劣な自己中心の排他主義は、人間の性であろうか。
 人として、心しなければならない、最も悪い、戒めむべき典型が、ここにある。
 このような卑劣な裏切り行為は、どのような場合でも、かたく慎むべきであろう。
 心せよ、日大経営者たちよ。
 これは68年当時の経営者に対する警告ではない。
 2004年(平成16年)の現在、ただいまの日大経営者に対する警告である。


      以上、現場メモ「現認報告=日大闘争」
{経,短学生会<経斗委>記録ノート}より、
      そのまま転載しました。
      はからずも、この日の実況中継になっています。
      なお,これは当時の清書前のメモですので、一部意味不明はご
      容赦ください。
      (清書したものは,パンフ「血みどろの三年間」に掲載してあります)



1968−5−27(月) 日大全共斗結成 

経済学部前では路上に学生があふれ返っていた。
抗議集会の司会者は、「ヒゲのトリさん」こと,ぶ厚いめがねでヒゲボウの経済学部学生会執行部文化部長の鳥越君である。
学生が次々に演壇に登ってアジっている。
矢崎君(法学部)が演壇に登った。
「我々はァー,たった今ここにィー、日本大学ゥー全学共斗会議ゥォ-、結成する事をォ-、宣言するゥーーー!」
この時が日大全共斗が結成された歴史的瞬間でした。
このとき,経済学部前に集まった学生は,5,000名と記録されています。

文理斗争委結成。各学部集会。全学共斗会議結成。経済前集会。
文理学生会久米委員長、無届集会に参加しないようにと掲示

「ゼンキョ−トって何だ?」
「全学部共闘会議の事だろ?」
「早大全共闘ってのもあったよな。」
「まあ,何でもいいから、とりあえず日大全共斗だ!」
(その時演壇のそばにいたあるクラブの学生が言っていた言葉です。
これって、今でも印象的な言葉でした。
この瞬間に,関東一円=都内各所、福島県、神奈川県、千葉県などの11学部12校舎に分散されていた日大生が一つにまとまったからです。)

蜂起前後、全共斗の前線司令部の一つだった神保町「白十字」
2003年の今も健在である。

1968・5・28(火)
各学部に斗争委員会を結成。
経済学部前で3,000名の全共斗集会。
31日の大衆団交を大学側に要求。

 

スパイ事件の発覚
ニセ記者の出現=正体は付属高校教員、保田某

情勢は煮詰まってきた。
当局は様々な方法で学生内部の情報を躍起になって集めていた。
それは手段を選ばぬものとなるにいたる。
上記の事実はその一端である。(保田<ヤスダ>スパイ事件)
なんと付属高の教師をスパイとして学生の中に送り込んできたのだ。
幸いに捕獲したが、これは氷山の一角であったろう。

 

1968・6・11(火)
経済学部校舎ロックアウト事件(いわゆる「6・11血の弾圧事件」)

この日、大学当局に抗議の集会が学部正面前でひらかれていた。
路上は抗議の学生で埋めつくされている。
学生が持ちこんだ2台の大型スピーカーから抗議のアジテーションがガンガンなりひびいている。
学部前には学生がびっしりと密集していた。
一人の学生が突然悲鳴をあげて道路にうつぶせに倒れた。
「どうした?」
みると額から血を流している。
「気をつけろ!あぶないぞっ!」
そのとき筆者は本館真向かいの経済2号館の1階で情報収集にあたっていた。
学生のレポが駆け込んできた。
天から
椅子と机が降ってくる!
「なに?ウソだろ。」
「上を見てみろ!」
あ,砲丸だ!
机だ・・・今度は
五人掛けの椅子が・・・・
次はスチール製のゴミバコが!
スチール製のロッカーまでが・・・次々と!降ってくる。

信じられない事が、い、いま、め、目の前で起こっている!!!
8階建て校舎のあらゆる窓という窓から手当り次第に下の学生を狙い、物が投げ落とされる。
でもよく見てみると3、4階から大勢の体格のいい男たちが並んで投げ落としているのだ。
無差別につぎつぎとあらゆるものが・・・・だ。
白い煙を吐きながら大型の赤い消火器がキリモミしながら降って来た。
大音響を立てて路面にドスンと落下する。

危険な状況である.

  この日1・2号館の間で当局に対する抗議集会が開かれていた。
  集会で密集した所へ投げ落としが始まったので怪我人が続出
  したんだ。
  経済三号館一階をあけてケガ人を収容、そこはもう野戦病院状
  態となっていたよ。
  看護はその場にいた女子学生があたっていた。
  僕自身も気がついたら,落下物が腹にあたって息もたえだえに
  なって3号館へ向かったんよ。
  かなりの負傷者がいたのを覚えている。
  Q:「そのあと医者かなんかが来て、ちゃんと手当てしたんだろうか?」
  その後のことはわからない。手当てしてもらってからすぐに現場
  へ戻っていったからね。
                      (証言者、執行部四年鳥越君)

この日の学生側の死者、負傷者、今だもって不明。
不可解な謎は深まるばかり・・

  三崎町の交差点では僕ら何人かで,救護にあたり,怪我のひどい
  ものは連絡先を聞いて救急車を呼んでもらって搬送した.
  このときの消防署などへの連絡は北京亭の若い衆ゃ、近所の商
  店の人がやってくれた。
  だが散急車で運ばれた者は二度と帰って来なかった。
  病院と本人自宅の家族と連絡をとっていた。
  が、なぜか途中で連絡がプッツリと・・・・そして、それっきり・・・・
  三十数年たった今も不明のままなんだよ。
  あれは不思議だったねぇー。(証言者:執行部四年鈴木君)

なぜだろう?そういえば、警察の捜査も一切なかった。
不思議な白昼の大規模な殺人?および殺人未遂,傷害事件。
世の地獄絵とはこのことか?
日大当局(大学職員と右翼体連が直接の下手人=大学当局の組織的犯行)による暴力の極致。
未曽有の血の弾圧事件。
この地獄の悪夢を俺たちはけして忘れない!!!!

  何人かで後ろの入り口から階段駆け上って,突入してったんだよ.
  上から机が降ってきてさあ。なんとか忍び込んだんだけどねー
  そしたらさあ、
 校舎階上で日本刀をギラリと抜いた奴がいてね.
  真剣、抜き身だせ。
  追いかけられて夢中で逃げたんよ.あれには驚いたなぁー(証言者:
1

  「3階のベランダで,右翼が日本刀を抜いてるのを見たよ」
              農斗委斉藤隆君後日証言

  あのあと,警察が出動してからだが,学校当局が、裏口から
  犯人たちを逃がしていたのを見た.
  かなりの人数が裏口から逃亡していった.
  職員が手引きしていた.(証言者水
すまし君    

  体育会OBや,学校職員が体連の学生を指揮しているのを見た
  よ.(証言:3)

  警官隊が出動したんだよね.学生たちは、犯人の暴力学生と
  学校職員を取り締まるものと思って.
  みんな警官隊を拍手で迎えたんだよね.
  そしたら警官隊は僕らに向かって解散しろとマイクでいったんだよね.
  それでさあ,殴る蹴るで僕らを蹴散らそうとしたんだよ。
  集団暴力の犯人が校舎の中にいるのが見えるんだぜ。
  それなのにさあー,何で僕らを殴るんだってんで頭に血が上ったよ。
  まさか、そのときは警察が敵だなんて思いもよらなかったモンねー。
     (証言者
ゼミ連四年舘野君       

 
 

1968-6-11(火)
全共斗、法学部をバリケ一ド封鎖

占拠直後の法学部2号館 1−2階に林立しているはずの旗指物や立て看板類は手前家並にさえぎられて見えない。
屋上にあるはずの、法斗委旗はまだ掲げられていない。
(1968年6月、経済学部4階より撮影=経・短学部学生会記録写真集より)

1968−6−11
★日大全共斗(経斗委),ヘルメットを新調す!

「今日はあぶなかったな。これからはやっぱへルメットをかぶらにゃ危険だよ」
「へルメットの色は何色にしよう?」
 全学連各党派のへルの色を数えていった。
「白は中核、赤はブントだろ?青は青解、モヒカンはMLだ。」
「緑色はないんじゃない?」
「あるよ、フロントかなんかじゃなかったっけ?」
「それじゃあ,色を二色か三色で塗ったらどう?」
「あのねぇ,君ねぇ,このくそ忙しいのにそんなややこしい事、やってられねえでがしょ?」
「全部あるな一、とすると……そんじゃあ,まあ,うすい青は?」
「ライトプルーか?」
「うん、これは無いよな」
「何だか,あまり戦闘的な色じゃないなー」
「まあ、ちょっとパッとしない色だが,とりあえずそれでいこう」
「諸君、異議はないな?」
「異議ナ一シッ!」
 みんなでわいわい・・・・
 占拠した直後の法学部3号館の二階のベランダ側の教室での事です。
 てなことで、わいわい言って、とり急いでとりあえずと言うことで、勝手に決めてしまった。
 と言うわけで登場したのが経斗委のライトブルーヘルメットであった。
                      (執:水登君証言)

 ヘルメットは各学部によってそれぞれ違っていました.
 たしか,最初は経斗委でこのライトブルーを決めましたが,その後,続々と各学部で色が決まっていきました.
 銀,赤白モヒカン,茶色,グリーン.白,などでしたが,他にあったら管理人までお知らせください.
 何しろ古い話なので…
 ともあれ、多彩な時期でありました.

  ★最初のヘルメットは?(それは6・10には準備されていた)
  「我々は当然6・11のような事態が起こるのを予測していた。
  それで事前に法学部のMN君を通じて社青同の活動家に頼ん
  で,メットを調達しておいたんだ。早稲田大学に借りに行った。
  数は、2〜300はあったはずだ。借りたやつは濃いブルーなので,
  これでは党派みたいでよくないので,薄いブルーに塗り替えたんだ。
  僕らは無党派だからな。それがライトブルーのメットの最初だと記
  憶しているよ」
  その他にML借用の赤白モヒカンの物も数十個、他の部隊が用意
  していた。
       (68年綜合経済研究会責任者、丸井雄一君(旧姓)2003-6証言)

 したがって経済バリスト突入のとき(1968・6・12)には,相当数のメットが揃っていた。
 集められた赤白モヒカン、濃い青、白などのヘルメットは、急遽、前日(6・11)に占拠した法学部2号館で、色の選定の上,ライトブルーに塗り替えたものである。
 色の選定については,前述の通りである。                   

 

  ●ライトブルーヘルメット異聞
  ちなみに,このライトブルーのメットは、関東では日大全共闘の経
  斗委だけですが,同時期に,関西では,このライトブルーのメット
  を着用した労働者の大軍団が,暴れまわっていたということです。
  彼らの名は,全大阪五地区反戦連合と言う無党派の反戦青年委
  の集団です。
  1967年10・8の羽田闘争に刺激されて,大阪各地で,工場労働
  者や公務員を中心に各職場で続々と反戦の名乗りをあげていきま
  した。
  組合もない中小企業でたった一人で,職場の中で反戦の声を上げ
  決起した強者もいました。
  また、その頃まだ社会党の党内組織であった社青同の中で未曾
  有の反乱が起き,多くの者が脱党して,無党派の反戦組織を作っ
  ていったのです。
  豊能、東淀川、東大阪、大東、浪速の大阪周辺一帯にわたる五地
  区の地区反戦青年委員会です。
  のちにあの「悪名」の映画の主人公、八尾の朝吉(実在の人物)
  がいた八尾地区で反戦委の旗揚げが行われて、6地区になりま
  したが,それでも五地区反戦と名乗っていました。
  また、学生は,大学全共闘に,高校生は各地区べ平連を続々と
  各地で結成していきました。
  大坂人はみんなお祭り好きのようです。
  とにかく普通だった人が突然騒ぎ出すのですから・・・・
  もっとも、この頃は日本中がそうだったかもしれません。
  67年の11月の終わりには五地区反戦の旗揚げが行われて,
  そのときメットの色まで決めたと言う証言があります。
  あの10・8から2ヶ月もたっていません。ものすごいスピードです。

  会議でメットの色の選定が行われた。
  それまでは地区によって、ある者は濃い青色を,ある者は銀色
  をかぶっていたが,それを統一するのは簡単だった。
  会議発言者いわく。「両方の色を混ぜてまえば,エエやんか!」
  かくして,青色と銀色の中間色,ライトブルーのヘルメットになっ
  た,と言うお話でした。
      (元東大阪反戦世話人、現連合活動家、要宏輝氏証言)

 
 
 


経斗委ライトブルーヘルメット初登場!


写真無断使用不可(けいとうい) 経斗委本部メット1968

  角材=ゲバ棒も新調(神保町材木屋に特注,最初は旗ざおの寸法
  に切って貰ったんだよ。持ちやすいようにさらに半分の寸法に鋸で
  切ったんだ。数が多くて大変だったよ。最初の分はおおかたやった
  が,あとの分は各自ノコで好きな寸法に切ってたな…
           (=調達担当者証言) 

  ヘルメットの調達は(斗争の全期間を通じて)大変だった。
  特に封鎖解除(1968・9・4)後の,9月の経法奪還斗争の時には、
  メットがいくつあっても足りないんだ。
  それぞれが,自前でずいぶん調達したし,(大きな声ではいえない
  が)工事現場を回って,現場に落ちているのを拾いまわった(??)り
  したものだ。
  また、手分けして、浅草橋の問屋街の帽子屋や用品屋何軒かに走
  って買いにいったんだが,大量注文なので,在庫がないんだな。
  その場でメーカーに発注してもらって,買い集めたもんだよ。
  「値段は?」と聞いたら,何しろ大量なので,こっちが値切りもしない
  のに負けてくれたよ。(証言)

 経済学部では,校舎占拠直後にまず規律が布告された。
 眺めていた下級生が言った。
 「規律とは破られるためにある・・・」と。
 ト、ホホ・・・困ったもんだ。

  

  規  律               経・短学生会

(1)全学友は身の回りの整理整頓を自主的に行う。

(2)全学友は理論武装を徹底化し討論を義務とする。

(3)全学友は破壊・リャク奪を厳禁する。

(4)全学友は常に衛生に気を配り、自ら進んで掃除をする。

(5)全学友は闘争勝利のために自己犠牲をしのび固い連帯行動を守れ。

  

   写真(無断使用禁)  注:文中、経・短学生会とありますが、これは=経斗委のことです。

 

 

 

     2004年現在・書類などの物置になっている。

全共斗本部も占拠と同時に設置された。
 日大経済学部1号館(本館)の中央吹き抜け室部分である。
  

1968-6-12 深夜

「敵襲!敵襲!」
 叫び声がした。
 連日の激しい斗争で、深夜、極度の疲労で寝入ったその頃だった。
 みんな総立ちで飛び出す者、ゲバ棒を構える者、ズボンのべルトを締める者、それはもう大騒ぎ。
 飛びだしてはみたけれど、敵らしい姿はどこにもない。
「何だ?何なんだ?」
 よく調べてみたらみんな疲れて熟睡中に一人が立てかけてあったゲバ棒を寝ぼけて足で倒したんだとさ・・・
 カラリと響いたその音が敵襲の正体だったのさ。
「ああ、しんど・・・」
 見張りをたててひたすら寝よう。
 という訳で翌朝はみんなで寝坊さ。
 さっそく神保町の交叉点の手前の材木屋さんでべ二ヤ板と角材を買ってきてトントン、力ンカン、裏ロの所に見張り小屋を建てました。
 それ以後、ずっと当番制で交代で見張りに立ちました。
 でもみんなキャンプ気分でとても楽しそうでしたよ。

 夜中は閉鎖施錠です。

 

     {古戦場跡ウォッチング}経済裏口見張り小屋と、その跡地

       
       2004年現在の裏口(写っている人は守衛さん)」  68年当時の裏口見張り小屋」HP「全共闘だった時代」より転載
  
 知っている人は知っている。経済裏口。
    ここに経斗委のバラックの見張り小屋があった。
  毎週週末になるとここに黒塗りの高級乗用車が横ずけされた。
      後部座席の窓があいて、酔いで顔を赤らめた
         中年の紳士が弁当を差し出す。
        「君たちご苦労さん,がんばってね」
        見張り小屋の学生の数の弁当がある。
           料亭帰りのお土産だろうか。
      見張りの学生たちがむさぼるように食べ始める。
               「うまい!」
    あとから来てご相伴に預かれぬ者が地団駄を踏んで悔しがる。
         「ちくしょう,一足おそかったか!」と・・・・
      当時の学生たちの噂では,どこかの大会社の重役だろう
      といっていたが,誰も本人に聞きただす者はいなかった。
     なぜならば目の前に差し出される料理のオリに目がくらんで
            しまっていたからだ。
     その頃、なぜかつらい深夜までの見張りに志願するものが
            多かったようだ。
         最初の時には、物知り顔の上級生が
          「食うな,毒入りかもしれん」
      などといって警戒したが、経斗委の下級生が言うこと
            を聞くわけがない。
      「死んでもよかよ」なんて言ってバリバリと食い始めた。
       これは大分長い期間続いたように記憶している。
    そのときの中年の紳士さん,ご恩は今でも忘れません。
         ありがとうございました。
       ただただ感謝するのみでございます。
     あの人はいったいどんな人だったんだろうね?
       とうとうその人は名のりませんでした。
    運転手つきの黒塗りの高級車、料亭風の料理のオリ、
     ひょとしたら当時の政権党の政治家のえらい先生
            だったかもしれないね。

     ●「夜中に出入りするときは2階のべランダから縄ばしごを
      おろして出入してたんだよな。
      なにしろろくな物食っていないので夜中やたらに腹が減る
      んだよ。
      神保町手前のべジタリアンという2階の喫茶店でサラダや
      らなにやらをやたら食ったこと・・・・
      ひとしきりお喋りして帰るんよ。
      主に4斗委とかの面々だったよね。
      このベジタリアンはその頃日大全共斗ご用達みたいだった
      よな。
      他にも各斗争委で毎日のように行ってたみたいだからね。
      深夜の縄ばしごはよかったね。ブラブラ揺れてちょっと怖か
      ったけれど、昼間は斗争があって息が抜けなかったけど、
      夜は天国だったね。」


            
縄梯子をこの位置に下ろして夜中にコッソリ出入りした。
            中央でポーズを取るのは、経闘委常駐=習志野ならず者部隊の江沢君

   当時、経斗委・斗争委員長の鳥越敏朗君の証言。
   (当時描かれた似顔絵)


<噂の真相>

 敵襲!その2

*材木屋が火事だ!事件

ピーー!!
 歩哨の学生の吹く警笛が校舎内に鳴り響いた。
「たいへんだーーー!!」
 歩哨の学生が駆け込んできた。
 右翼の襲撃か?全員武装して校舎外に飛び出した。
が,何事もない。
「何なんだ」
「か,火事だ」
「火事?どこが」
「材木屋が燃えてるんですうー」
 様子を見に行った者の報告では御茶ノ水寄りの家屋が燃えているという。
「みんな行こう」
 ヘルにゲバ棒の集団が現場に駆けつけた。
 次々にに炎の中に突っ込んでいく。
 可燃物を運び出し,上着で火を叩く者、水を運んで火にかける者、消防に連絡する者。
 それはもう大騒ぎ。
 そうこうしているうちにおっとり刀で消防車がサイレンを鳴らしてやってきた。
 何とか消火。
「やれやれ・・・・」
 みんな校舎に引き上げ,疲労で寝静まった頃,封鎖された校舎正面玄関に消防の広報車が横付けになった。
「日大全共闘の皆さん,本日の火災での消火ご協力ありがとうございました。消防署員一同,諸君のご協力に感謝しております。」
 マイクで校舎内の全共斗員に向かって放送した。

 後日の事。
 当の火事を出した材木屋のオヤジがバリケードの中に礼に来た。
 お礼の品を持参してきたというのだ。警備の学生が受け取ったという。
 我々は,材木屋が持参した物は,てっきり角材であると思い込んでいた。
 材木屋=角材→なんと浅はかな思い込みか?
 (人は自分本位にしか考えない。)
 あとで受け取った学生に確かめたところ,なんと,菓子おりだった。
 そのときには,歩哨の学生が食ってしまった後だった。
「ナニー?菓子おりだって-?ゲバ棒用の材木じゃーないのか???」
 ゲバ棒がただで手に入るものと思い込んだ我々は,がっくり・・・・
 というお粗末でした。  (ネタ提供:経闘委委員長=鳥越君)
 

<全共闘正伝・予告>

 蜂起前さすらいの学生集団 全共斗電話局 トイレの水が出ない・・・水道管の破裂  ZEROXが火を吹いた 地下駐車場の謎 校舎内の巡回警備 マスコミによる悪い噂 中屋上の花壇の惨状 騒音に対する近所の苦情が→支援に変わる 銭湯にて 謄写版 手動輪転機の購入 略奪禁止令=図書館攻防戦 芸術学部OBの記者の嘆き 教室内の焚き火 メットを塗ったスプレイ缶の始末は? 学部前の朝の清掃 馬鹿でかいタテカン バケツに石 ダンプ一杯の舗道の石 1回目の本部封鎖の内幕
 白い扉の喫茶店 「金は要らない」食堂店主のありがたいお言葉 デモが終わると温かい飯とのりと卵が・・・・ みのり食堂 北京亭にて 芳賀書店 ウニタ書舗 東方書院 東大青医連医療部 御茶ノ水交番焼き討ち パトカー襲撃事件 密告:経済バリケードに訪れた反古田派のリーク情報 地元神田警察署警備課長との友情? 第一機動隊の全共斗学生への敬意 当局学生課長と斗争幹部との美談? 今だから言うが火炎瓶の隠し所  その後さすらいの全共斗-明大学館-中大学館-法政大 持てないくらいバカでかい全共斗旗 ライトブルーヘルメットその最後の一個は? 三里塚の日大全共斗 
 全共斗の伝説は尽きない・・・・
 などの逸話についてはボチボチと書いていきます。 

 

 

1968・6・12(水) 経済学部バリケード封鎖

 

<噂の真相>

1968-6-14(金) 日大本部突入,封鎖の実際

1968-6-18(火)
商学部ストライキ突入。
インナー講演会

1968-6-19(水)
芸術学部ストライキ突入。

 文理にて,午前2:00学生会議(右翼)約70名が学内に殴り込みをかけたが追い散らし,そのうちの一人を捕らえ,城西署へ突き出す。

全学集会  2:00〜。
 本日は法学部教授会の斡旋で,古田以下全理事と,共斗側代表30名との大衆団交を前提とした予備折衝をやるはずであった。
 しかし共斗側代表が本部に乗り込んだときに、全理事は姿を見せず、(法)の杉山指導委員長と細谷学生部長のみ出てきて「今朝のビラ(法学部速報)によって,事実上拒否されている」ところの説明がなされたのみであった。
 当局は前日用意したビラによって,作為的に我々との交渉を拒否していたのだ。
 その後の本部前抗議集会に細谷学生部長を引き出し、詰問したが「知らない」と繰り返すのみであった。
 結局、全共斗は25日最終団交要求書を突きつけ,20日午後7:00に正式回答を求めることを細谷に確認した。
 全共斗は,25日本部封鎖を提起したが,当局の態度に学生は怒り,この日の本部封鎖となった。

1968-6-20(木)
五大スローガンに続く,当面する獲得目標としての具体的要求項目確認。
     @学生自治弾圧をやめ,自治権を学生の手に
     A不正事件にともなう大学当局を糾弾する
     B大衆団交要求(以上3本の柱)

経済学部講演会「日大改善案闘争」(昭和33年)

1968-6-21(金)7:00〜8:30まで本部の回答待ち集会を開くも,回答はこず。
10:30になって,新聞発表と同内容の
「現時点では大衆団交には応じられない。30名となら会う。」
というものであった。
その際,先に確認した具体的要求項目を当局の使いに渡す。

経済学部講演会 国分一太郎氏「教育問題」(約500名。)

1968-6-22(土)2:00より,経済学部学生集会・討論。

2:15法学部行動隊60名デモ。

法学部で,映画「圧殺の森」上映(500名)

三島校舎では,2,000名デモを敢行し,24日ストライキ突入を確認。

農獣医学部ストライキ突入。

1968−6−24(月)
古田記者会見で,19項目にわたる改善案発表。

三島文理ストライキ突入。本館2回以上占拠、一階事務関係は封鎖せず。
経・法20名が三島支援に行く。

1968-6-25(火)
 12時各学部集会後,
 2:00全学統一行動、経済学部前。
(写真)
 本部包囲デモの後,法学部一号館大講堂に全員が入り、全学抗議集会をもった。
    (2,500名)
 なお,この集会と並行して、礫川公園で六学部自治会
(*注)主催の集会に出ていた約2,000名の学生も,列を離れ、全共斗集会に途中から参加。
 この集会で
  「法学部首脳陣に対し,全学生の前で改善案の説明をせよ」
  との要求書出す。
 5:00になって,平田法学部指導委員が派遣されてきたが、前日の改善案と同じものを文書でよこし,その席上,平田氏は学生の真剣な抗議にもかかわらず,ただ「わからない」「真実を伝えたまでだ」と一言区切りの言い訳しかせず,終始薄笑いを浮かべるだけであった。
 6:00全共斗は学生の声を無視し,一方的な声明を出し,それに対し何も答えようとしない大学当局に対し、怒りと、抗議デモと、法一号館封鎖という方針を提起した。
 さらに全共斗は9月全面展開に向けて,2ヶ月間のバリケード死守を全体で確認。
 又,この集会には生産工学部斗争委員会が正式に発足,全共斗に参加。

 
 

     (*注)六学部自治会とは=日共民青系の集団、上記記述のように,
      当初から分裂行動をしていた。
      6-25の集会の後,経済学部で全共斗と合流するはずだった。
      それが,礫川公園での集会後,急遽コースを替えたとの情報が入った。
      党本部の指令変更によるものだった。
      不満を抱いた多数の参加学生が,続々と経済学部に向かって集まってきた。
      結果的に、個人レベルであるが、合流したことになった。
      後日,日共は党指令で,「日大全共闘はトロツキストと同類であり,日大内の
      活動家は全て,日大斗争から手を引け!」との指令を出した。
      斗争初期に、土屋、沢谷君(民青)の処分撤回斗争に全力を挙げながら,ついに
      決起後の日大斗争で主導権を取れなかった日共の党ぐるみの裏切りである。
      全共斗メンバーの党員は各学部から,一斉に姿を消した。
      ある日,執行部の新田君が、挨拶に来た。
      党指令では如何ともしがたいという。
      彼は悔しさに我々の前で涙を流して、すまなそうに去っていった。
      彼の心情を思う時,我々は「いつか戻って来いよ」と言って見送る以外になかった。
      だが,日共党員の中にも,全共斗に居残った者が多数いた。
      彼らは,自らを民トロ(=民青トロツキスト)と規定して日大斗争を最後まで戦い
      ぬいた者たちであった。


    *後日談であるが、このとき去っていった頑固な共産党党員たちの中でその後,
      日共党員として残った者の事を聞かない。
      何らかの理由で次々に日共を去っていったという事である。 (後日

 
 

談の証言者:F氏)
                      

1968-6-26(水)
経済学部討論会「現代社会における人間性」

1969-6-27(木)
経済学部「圧殺の森」上映。
 高崎経済大の元自治会員による、事実経過を中心とする斗争の問題点。

1968-6-29(土)
経済学部決起集会 経済学部前 1時 経・短学生会
(写真)
 法学部と合流。
 錦華公園での教職員組合の集会に参加しようとしたが,拒否される。
 教組のデモは
         「全理事退陣」
         「学園民主化」
         「春闘・・・・」
 のプラカードを手に,本部前でシュプレヒコール。
 5:30西神田公園にて解散。(約1,000名)

 この時点で,全共斗は11学部となっていた。
(法,経、文理,商、習志野理工、芸術、三島、理工,経済2部,農獣医,法2部)

理工学部学生大会、共闘会議支持決議−−−新執行部成立。

    ※68-6・18〜6・29までの事実経過は,経斗委発行の当時のビラより転載

 
 
   
   
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