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 日大斗争ドキュメント 1969年日大斗争
              
 
 

                   
                   1968年12月から69年1月にかけて、日大全共闘は東大闘争に連帯し、
                       具体的な支援行動に打って出ていた。
                       東大駒場キャンパスに、本郷キャンパスに、と、日大の武装行動隊が展開し、
                       敵=主に敵対し、東大全共闘を追い詰めつつあった日共民青の屈強な労働者
                       部隊との熾烈なゲバルト闘争を展開し、東大全学における日共支配の形勢を
                       逆転していった。

  以下文中、赤色文字は、(注)で  茶文字は後入れ挿入文である。
   お断り:1968・1969日大斗争の文中で↓
   *事実経過の文言は,できるだけ,当時のビラよりそのまま転載している。
   *ティーチイン・全共斗会議の内容は,現存する経・短学生会(経斗委)の「議事録」よりそのまま転載した。
    そのため意味不明の個所があるが,ご容赦願いたい。
   *その他、証言については,本人の証言をそのまま記載してある。
 

1969年

激動、激闘!の1968年は暮れ、1969年の幕開きだ。

この前年、幾多の経験をした日大生たちは、またまたびっくりするような、おびただしい事実と局面に直面していった。

 

1969年1月元旦 
日大経済学部の校舎の風景

正月を迎えて校舎の窓から突き出され,林立する数々の赤旗や青旗また黄色や紫色の様々な色とデザインの旗の間に巨大な日の丸の旗がヘンポンと翻っていた.

日の丸に誰も文句をいう者はいなかった。
何故か?
誰も文句が無かったからだ.

同じ頃,東大安田講堂には巨大な赤旗とアナーキーな黒旗がハタハタとはためいていた.
これは格好いいと思った.さすが,東大!
あの夕焼けの空にハタハタとはためく大きな黒い旗,
まさにあの中原中也の「曇天にはためく黒旗」そのものではないか!
しびれるほどの思いで見た.
かっこいい…

そして大晦日深夜から元旦払暁にかけて,新年祝賀の初デモが行われた.
何考えていたのやら… 日の丸?新年祝賀?やっぱりおまえら、右翼やんか!

上の詰問に答えよう!

「我々は右翼ではない,また,左翼でもない。我々は日大全共斗である。」とね……

1969‐1‐7
経斗委ティーチイン  15:00〜
1・10集会スローガン
(東大斗争・全国学園斗争勝利総決起集会)
全学集会粉砕 加藤提案・加藤見解粉砕
入試復活策動を通じた闘争収拾粉砕
七項目要求貫徹
大学の帝国主義的再編粉砕
一月を全国ゼネストで勝利せよ!!

1969−1−14
文団連斗委ティーチイン
★1月9,10、11日の総括を行う。
 全学封鎖貫徹の為,激烈な軍事行動を展開したことは、実力斗争の観点からいって一大転機でもある。
 反民青の主導権争いでなく、大学教育のブルジョア私教育化をくいとめる戦いを展開した我々であるのだ。
 しかしながら大衆的な浸透を行えなかった事,日大斗争が一貫して持っていた大衆斗争が組みえなかった。
 内容的にはそれが単ゲバ的
*注)に行われたことにより,マスコミキャンペーンに乗せられた宣伝が行われたようだ。
 軍事的には攻めるという弱みをもって敗北していってしまった。
 ところが3日間のこの斗いは,軍事的な側面だけでなく、権力側の紛争収拾ということに 同調した反革命を斗争勝利の過程でぶっ潰していく斗いであるのだ。
 9・30以降の日大斗争の経過からくる必要性→日大斗争の全国化
★15日、全国総決起集会
 日大斗争の流れの中の東大斗争を勝利に導き,運動の質的上昇に迫り,日大斗争に勝利を目指す。
 東大生の中の流動化,学生層の分解,敵権力の明確化を図る。

*注:単ゲバとは、単純ゲバルトの略語である。
 当初「ゲバルトやるしか能のないバカ」といった意味あいであったが、日大全共斗の学生たちは,この本来の蔑称をいたく気に入って,自ら単ゲバを名乗り、そういわれると胸を張ったものだ。
「単ゲバ」といわれるのは,彼らの勲章でもあった。
 そういえば、3斗委のミゼット号の写真を見ていただきたい。
 車体に「バカ」と描いてあるのが見えるはずだ。
 その頃の全共斗の学生の気分をあらわしている。

1969年1月某日
 経済学部バリケード内に、京都大学からの支援要請がもたらされた。
 いわく
「@京大でもバリケード闘争をやりたいが、バリ闘のやり方を教えてもらいたい。
 Aまた、その指導の為、日大全共斗の活動家の諸君を派遣願いたい」
 おおむねこのような内容のものだった。
 さっそくバリ内の各斗委に集合をかけ、この旨を審議した。
 まず@の問題である。このとき各人は思わず顔を見合わせた。
 「どういう風にしたらバリ斗争をはじめられるのか?」
 「????・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 極めて難しい質問であった。日大の場合には、バリ封は、必然の結果であった。身を守る為、バリケードで防衛する以外に方法がなかった。京大の場合には、そのせっぱつまった事情があるのだろうか?あまりの直接的な問いにその場の全員は唖然とした。意見は出なかったが、結論はこうである。
「やりたかったら、すぐに始めればいい。」としか言いようがない。
 次は、Aの問題である。これは、2斗委のメンバーに「何人か募って、京都まで行ってくれないか?」と頼んだ。何とかしましょうという返事だったので、彼らに任せることにした。
 その後、通称「KOBUTA」を含む7〜8名の経斗委のメンバーが、早速関西へと向かった。
 翌朝、新聞、テレビ等では京大での大事件の勃発が報じられていた。

1969年1月18日、19日
東大斗争・神田解放区闘争。安田講堂を防衛せよ。
 日大全共斗は東大構内に突入せよ。参考中大新聞復刻版

 政治党派の論理と、無党派の大学斗争の取り組みの齟齬が・・・露呈した。
 そしてセクトが安田講堂に残った・・・・
 その戦法は玉砕・・・・
 (東大にて・・・・)後日の証言より
 結果,日大全共斗は東大キャンパスに突入することはなかった。そして・・・・・・・・・・
 お断り、これはあくまでも,当時の議論の一部です。
 このホームページの性格上、記述はここまでです。
 (あとずけの議論や評価はせず,事実のみを書いてゆく。という,「まえがき」の趣旨より)

 

1969-2-2

経済学部・法学部に機動隊導入、校舎のロックアウトを行なう 。
 その前夜、経斗委内では,39番講堂で結論の出ない議論が延々と続いた・・・・

 

1969−2−12 市民、OBによる支援の呼びかけ文

 
 

1969-2-25 教授会総団交

1969−3−4
日大斗争勝利労学決起集会
 清水谷公園 午後5時30分結集
 ホテルニューオークラに向けてデモの予定
 日大斗争救援会
         ↓
古田重二良先生激励会
 ホテルニューオークラ 平安の間 会費3、000円
 社団法人 日本会 総裁 佐藤栄作(当時現役総理大臣)
 日本会調和連盟会長 中原 夷
 発起人  賀屋興宣 田中角栄 山岡壮八 他

1969年3月5日
 ついに大学斗争は関西に飛び火した。
 京都大学・バリケード斗争の開始 →(関連記事)

 

1969年3月某日
明大学館にて・・・・
 珍しい3月の大雪だった。
 降り積もる雪の中、御茶ノ水の明大学館に駐屯していた日大全共斗の学生たちは、外に出て,雪合戦を始めた。
 はじめは軍事訓練のつもりだった。
 だが次第に熱を帯びて,この遊びに夢中になってきた。
 遊びが最高潮になった頃,学部寄り(水道橋寄り)にいた者が叫びながら走ってきた。
「右翼だ!襲撃だ!」
 右翼の偵察部隊と遭遇したのだ。
 直ちに学館に駆け戻り、角材や鉄パイプを手に手に持って右翼の討伐に向かった。
 右翼どもを散々に追い詰め、蹴散らしたのは言うまでもない。
 だがこれには後日談があった。

 

1969-3月 中教審粉砕集会

1969−3−23 経法奪還斗争

1969−3−25 新入生連帯集会 経法奪還斗争
          法政大学内総決起集会 日大全共斗
          5,000名

*「このときはすごかったね。
 法政大で総決起集会をやって橋を渡ってお堀端沿いに経法校舎に向けて進撃したんだが、ほとんど新入りのぴかぴか学生が機動隊に突っ込んでったんだもんね。
 行動隊長は経済の楠木哲雄君,彼はあの時逮捕令状が出ていて、地下生活はもう疲れたから 出撃してお務めしてくるって先頭で出てったが、どうせパクられるんだからってふてくされて現場で大暴れしたんだそうだ。
 だが、なぜかパクられずに戻ってきたんだよね。
 でも当人がっくりしてたぜ。」
 「どうして?」
 「だってさ、また普段の日は隠れてなきゃならないからね。令状があるからな。」
 この頃は連日のように校舎奪還斗争の連続だったな。
 忙がしかったよな。(目撃者証言)

(1969-3―30 三里塚軍事空港建設阻止闘争 日大全共斗1,000名参加)

1969‐4-12日大闘争勝利,経法奪還斗争 明大駿河台3,000名

4−14 生産工学部進級試験

1969−4-15 習志野工学部入門禁止者氏名公表、ビラで・・・

(1969‐4‐28沖縄闘争 日大全共斗1,000名)

1969‐5‐12現在、
      4・28沖縄斗争による、
          現在の逮捕者   965名
               拘留者数 766名
               入院     11名
          4・28斗争救対による

1969‐5‐13 二部経商短学生自治会と商学部教授会との大衆団交(???)。
 いわく「教授会と学生との間で,自主的・民主的に解決できうる展望を,切り開くもので、画期的な意味を持っている・・・云々」
 自治会代表と,学部教授会の大衆団交???いずれも全日大を代表する者なのか?
 否,である。単なるボス交に過ぎない。
 最終行で彼らは言う.「全共闘一派の不当な暴力を許すな、と・・・・・」
 全共斗の直接民主主義に敵対する、無びょう幻想の前衛党のまたまたの出現である。
 かつて,六学部自治会とともに日大斗争を裏切ったあの日共民青が主導権を狙って再び,頭をもたげている。

5−17 労学連帯集会 習志野市民会館 ゲスト折原浩 日大教員共闘委(ただし市民会館は当局、警察の妨害で使用不許可となる)

1969‐5‐17 経済学部討論集会
          PM4:30〜明大学館新館5階151集会場にて
         経済2年全体集会
          PM7:00〜 明大学館内旧館3階

1969-5-18
   ●救対ニュース(5月18日発行) 日本大学全学共闘会議救援対策本部
      逮捕者総数<個別日大闘争>997名
      起訴者総数            68名
      負傷者総数 重傷        713名
      軽傷              6,296名
      失明                 3名
      現在拘留、拘置者 総数    27名

1969‐5-20 理工学部教授会団交 午後一時 理工一号館 151教室

1969‐5‐21 日大闘争一周年全学総決起集会!
         全学再封鎖貫徹!
         古田体制打倒!
         大学立法粉砕!
        午後2時 明治大学記念館 日大全学共闘会議
        4,000名

1969‐5‐23 大学治安立法粉砕・破防法粉砕全国学生中央総決起集会
        12:00明大学館中庭→東大安田講堂前集会→経・法奪還闘争
        日大=3,000名
        *安田講堂を予定していたが、権力の強弾圧の為、記念館に変更。

(1969‐5‐31 愛知訪米阻止闘争)

1969-5-28 産経4クラス決議文を掲示!(経済2号館ロビー)
         仮処分撤回など,七項目を決議

(1969‐6‐1砂川闘争)

1969−6月 寿乃田事務次長逮捕さる!
        日大闘争の発端となった,「富沢事件」の重要参考人として、
        取り調べを受けていたが、「背任横領」の罪名を持って寿乃田
        事務次長が逮捕された。
        彼、寿乃田は日大闘争のその闘争本質を一ヵ年にわたる現在
        も何ら理解しようとはせずに,云々
              ・・・・6・14発行 産経2年4クラス発行「焦点」より

1969‐6‐1医学部当論集会

1969‐6‐2 日大学園協議会第一回総会 古田会頭→会長となる.

1969-6-3 古田再選阻止集会 医学部板橋校舎
        医学部討論集会 PM5:00〜医学部校舎4番教室

1969-6-4 全学総決起集会経済学部前 日大全共斗
        藤沢新入生連帯集会 AM10:00明大学館前結集→藤沢高校
        新入生300名が参加。

1969‐6‐5 秋田明大議長,拘留開示公判。
        秋田健在,戦う決意を傍聴人に表明。
        戸川寿子女史公判。
        秋田君保護の正当性を主張。

1969‐6‐6 経済学部学生集会
        場所:経済学部1号館7階大講堂
        AM11:30
        *学校当局の立入り禁止により,学部前で機動隊の弾圧にもめ
          げず.集会を勝ち取る。

(1969‐6‐7 労学総決起集会 横国大PM3:00)

(6‐8から6−10 アスパック川奈会議粉砕闘争)
      
参加者は全員逮捕
       「あの時はとにかくすごかった、機動隊が徹底的に追ってくる。路地へ逃げ込もうと家に逃げ込もうと追ってきて、ついに逮捕されてしまった」
       後日証言、当時文団連闘争委員会委員長、市川君(法)証言

1969-6−11 日大斗争(バリスト)1周年・経法奪還斗争
          午後12:00   明大学館前 明大91番講堂
          午後2:00〜 経済学部前
          4,000名   不当逮捕者46名。
          この日,日大全共斗は,6・15集会に圧倒的隊列をもって戦う事
          を意思一致する。

         (医学部期限付きスト突入)

1969‐6‐13 授業料納入拒否闘争に結集せよ!
         日大全共斗法斗委授業料不払い同盟

(1969‐6‐15 大統一行動 反戦,反安保,沖縄闘争勝利集会)
      「大学立法」粉砕、中教審答申粉砕!全国学園闘争勝利!
      PM1:00 日比谷公会堂    日大全共闘5,000名

1969‐6‐20 新入生(藤沢校舎)討論集会
      午後2:00〜明治大学学生会館旧館3階
      
*藤沢校舎の学生に向けたビラには,明大学館の地図に加えて,
      六会から御茶ノ水までの交通費270円となっている。

      (経済学部2闘委書記局=6‐19発行ビラ)

   ●この間の集会の呼びかけは,
       経済学科2年16クラス有志、
       日本大学経済学部 経済学科二年四組(ビラ署名)
       経済2年産経4クラス 「焦点」1969・6・14発行ビラ他
       経済二年斗争委産経1クラス有志
       経斗委 三年生斗争委員会
          日大闘争勝利に向けてのアピール 69・5・23 ビラ他
       日大経済歴史研会員 明大学館旧館三階経斗委室内 1969・6・27
       日大全共斗 経済学部斗争委員会
       日本大学全学共斗会議経済学部二年生斗争委員会-書記局-
          [二闘委通信] 6・21大学立法粉砕1万人集会
            全国全共闘をもって,中教審=大学立法を粉砕せよ!ビラ他
       理論誌「全共斗」編集委員会 理論誌「全共斗」創刊号 69・6・11
       日大全共闘 法学部斗争委員会
       日大全学共闘会議事務局「勝利」-秋田獄中記連載ビラ-1969・6・26発行他
       法学部2闘委管行闘委
       法学部学友会闘争委員会
       日大闘争支援全学部OB会議、
       経闘委産経2年1クラス有志、
       経済学部歴史学研究会
       救対部、
       理工2部機械3斗委、
       経済3斗委、
       日本大学全学共斗会議 経済学部短大斗争委員会
       法学部学友会斗争委員会
       法学部憲法研、
       東大全共斗救援対策本部

       日大全学反戦会議経済支部(中核派)
       日大反帝学評文理、

       日大斗争勝利行動委員会(二部経商短学生会)=日共
          「全共闘一派の不当な暴力を許すな」69-5-14付ビラ

         などです。収集場所は,経済学部校舎周辺。

  ●日大,予算額の伸び方(2倍強)
       S39年度  13,622,024,000
        40年度  19,029,574,000
        41年度  23,316,331,000
        42年度  26,575,599,000
        (法学部憲法研究会資料より)

  ●この時点での日大関係摘発事件
       日大脱税逃れのトンネル会社事件
       日大2号館寸詰まり建築事件
       古田会頭による山梨県温泉地山林不正購入事件
       日大教職員組合による背任横領告訴中
       また,現在では(1969年6月)経済学部前学部長
       と事務局長が公金横領罪で警視庁に摘発されて
       いる。
       (法斗委・授業料不払い同盟ビラより)

1969‐6‐21 大学治安立法粉砕・一万人集会
       一万人国会デモ
       日大法学部1号館大講堂PM2:00より 日大全共斗

1969‐6‐25 経済学部討論集会
       電通会館(御茶ノ水東口下車)午後1:00〜4:30

1969‐6‐26 大学立法粉砕全都理工総決起大会  全電通会館

1969‐6‐26 配布ビラ掲載
  1969年5月10日(土曜日)
  <獄中記(2)秋田明大>
 逮捕されて2ヶ月の拘置生活が続く.皮肉なことに権力の機構の中で,全く自由が利かないにもかかわらず,私にとってはもっとも貴重な日々なのかもしれない。
 さて何から書いていいのか・・・・・

 
 

     ・・・・はるか・・・・
             はるか彼方に
                   機動隊・・・・・

                      −秋田明大−

    この続きは獄中記を読んでください。
    日大全学共闘会議事務局「勝利」-秋田獄中記連載ビラ-1969・6・26発行

    (*注:)当時学生に配布されたビラの中で、早くも秋田君の獄中記が
    連載されていた。
    権力の檻の中での執筆から1ヶ月後の事である。

1969‐6‐27 大学立法粉砕・関東全都大統一行動
        PM2:00明治公園  PM2:00〜日比谷野音(どちらが正解か?)
        日大はPM1:00明大学館前集合
         *注:この段階で、すでにセクトによる分裂集会が行われていた。

 
 

*日大全共斗外伝*

1969‐8‐7〜11日 反戦のための万国博=反博(ハンパク)
−−−人類の平和と開放の為に−−−
 大阪城公園(森之宮)
 日大全共斗代表参加。
 *国家権力のお祭り騒ぎに便乗したところのこののんびりした平和のイベントに疑問をもった日大全共斗代表参加者は主催者のべ平連吉川事務局長に面会を求めたが,その応対に業を煮やした彼は,吉川を殴る。
 大阪の夏は熱い。
 クソ熱い中,日大全共斗の面々は,御徒町アメ横=中田商店で仕入れた分厚い米軍の中古戦闘服に身を固めていた。
 その軍服は,流れ落ちる汗で黒く染まっていた。
 同様の姿はその後の三里塚斗争の中でもしばしば見られた光景だった。
 オリブドラブ色の戦闘服に,ライトブルーのヘルメットそして鉄芯入りのハーネスブーツ。
 これが斗争初期には学生服と白Yシャツで始まった日大全共斗の学生の最後のスタイルであった。

 

*付録記事* 日大全共斗・服装変遷史は,こちら

 

 
 

日大闘争後段の戦い (69後半以降)


        華燭の典=68−69の輝ける時は過ぎた。
       日大全学は,再び暗黒の暴力支配となった。
      有名な「日大アウシュビッツ体制」の始まりである。
     当局,関東軍の血の暴力支配が日常茶飯となった.

     そのあとに続く、長く苦しい戦いの季節に日大生たちは・・・

1969年
日大アウシュビッツ体制への闘い

疎開授業 阻止の闘い (写真)朝日ジャーナル1969−6−1号より転載

 
 

終わりなき日大闘争

1969−9−4  1000人の学生が明大で集会、周辺をデモ

1969−9−8  医学部再度のストライキ突入

1969−9−11  300人が法学部3号館で集会、一部が経済学部1号館に突入

1969−9−12  1000人が古田全会頭を会長とする新体制打倒の集会を明大で開き、デモ

1969−9−13  文理学部周辺を500人の学生、市民が文理アウシュビッツ体制粉砕デモ

1969−9−18  数十人の学生が、文理学部に突入

1969−9−30 

バリケードにかけた青春   1969年の雑誌広告

 

日大闘争一年間の遺産   原本

逮捕された者     997名
うち起訴されたもの 68名
拘留中のもの    27名
重傷者        713名(うち失明3)
軽傷者       6,296名
注 数字はいずれも延べ数。
5月20日現在、
日大闘争救援会(東京都新宿郵便局私書箱642号)調べ。

農獣医で突入闘争しきり

医学部で、エスカレート     微風地帯で、なぜ・・・・

1969−11−15 日大新体制弾劾、庶民集会、デモ

 
   
   

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