けいとうい
日大全共斗
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決起への道 

「日大全共斗は、僕ら普通の学生が作ったもので、
何ら特別なものではないよ。」・・・秋田明大(あけひろ)君証言。

これは当時の日大全共斗議長の彼の肉声である。

 

また(経済学生会)副委員長 I 田君も次のように証言する。

「決起前の日大生は弱かったもんなー・・」と・・・・

 

「何も特別な戦術を用いたわけではないよ。斗いの経験が、日大全共斗独特の戦術を生み出したんだよ」

と、当時経斗委委員長鳥越君は言う。

 

なぜ、ひ弱だった普通の学生(=一般学生)が次々と決起し、ついには全共斗を結成するにいたったのか?

 

それは経済学部では、1966年三崎祭・芝進闘争にさかのぼる。

当局により不許可とされた芝田進午氏の講演を伴う三崎祭の実現に向けて、当局との交渉で執行部が妥協したのだが、学生の多数はそれを認めず、「芝進闘争」というスローガンの掲示は1ヶも下ろさず大学祭をやりぬいたのだった。

その学生たちの中から必然的に闘う執行部が生まれた「67年藤原執行部である」ただちに学生自治阻害の元凶=応援団を解体に追い込み、その当然のことを当然のように要求する方針・行動は、当局による執行部への暴力弾圧による強制解散の事態を現出した。(4・20事件)

だが多くの学生はひるまなかった。

当局により全面的に活動禁止=停止された学生自治は、学生委員会の中から議長団を生み出し、闘いを継続した。

学生委員会には学生委員以外の学生も多数参加していた。

日大方式の拡大学生委員会である。

委員会に参加するのに、何の資格も要らない。

決議の一票は、学生委員のみが持つのではない。

いや採決などは不要だった。

徹底した全員の討論によって自然と全員一致を迎えるからだ。

その場の学生全員が当局との交渉に臨んだ。

十数時間に及ぶ、徹底した議論が交わされた。

いわば学生全員が失われた執行部の代わりとなり自ら決断し、行動したのだった。

議長団の学生委員会の時代である。

この時の学生委員会のありようは後の日大斗争にとって、大きな転換点となった。


   _____

その拡大学生委員会の議論の中から1968年秋田執行部が生まれた。

真に闘う執行部の誕生だった。だが、現実は厳しかった。

この執行部も、処分放逐は不可避だろう…(当時の執行部員の覚悟、あるいは予測。これは各人共通したものであった)

そしてそのとおりになった。

執行部は真二つに分断され、執行部と有志活動家の処分、学内活動が完全に封殺された。

後詰めの者たちが処分された執行部及び有志とともに次々に決起していった。

そして、1968年5月27日、日大全共斗が結成された。

決起への道のりは遠く険しかったが、また、一方では急速に煮詰まったものとなった。

以後、全共斗による日大斗争は日大の一般学生全員がそれになだれ込む形で、大爆発を迎える。学生の誰もが全共斗を名乗った。

クラス、学年、ゼミ、研究会、個人それぞれが全共斗を支持し、自ら斗争委員会となっていった。

これにも何の資格も要らない。

「俺たちが日大全共斗だ!」そう名乗ればOKであった。

これが決起への道の概略である。

かれら日大生の戦いの原動力は、学生自治抑圧、不正や暴力弾圧に対する「怒り!」
・・・・これであった。

 

詳しくは本文を参照されたい。

 



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