決起への道  1958年  1966年  1967年  1968−1  1968−2  1969年  1970年  1971年  現  在
 

 日大闘争ドキュメント 前史1966年

 

1966年度学生会(古賀)執行部成立

 
 

1966年度経・短学部学生会(古賀)執行部の闘い
三崎祭 柴田進午講演会不許可中止事件

                    


「芝進,自治権獲得」,この二文字を必ず掲げて当局に抗議しよう。
全研究会の全展示に写真の抗議の看板が掲げられました。
例外なしにです。一部、二部の参加団体全部がこの抗議の意思表示に参加しました。
写真の「経二会」というのは,執行部によって新たに組織された新入生による学生委員の組織です。
当時、学部の2年生は15クラスあったので15人の委員による組織でした。竹林君が委員長を勤めていました。

1966年連続する応援団による暴行事件が頻発。マスコミを賑わせる。日大というのはよくよく世間を騒がせる大学である。

日大当局による見せかけの「応援団解散命令」で世間の批判をかわす。が、学内では解散した筈の応援団が大威張りでかっぽしている。

これら一連の日大応援団による他校学生への頻発する暴力事件が、日大学内における過去の数々の応援団他の体連による学生暴力支配への不満となって、その後の学生総意による応援団解散決議となるのである。

事件のすべてはそこから始まった。

弾圧は応援団を中心とする体育会の連合形成=日大体連により組織的に行われた。

それらの指揮系統は、日大本部権力=古田理事会より直接に出されていた。(日大本部学生対策資料参照)

 

経済学部・芝進闘争とは?


芝田進午闘争(1966年10月・三崎祭闘争)

   -弾圧下の三崎祭・自治権奪還闘争の開始-

1966年10月、経済学部の学生は1年間の学問・研究活動の集大成の場である,三崎際(経済学部の大学祭)に全力を注いで活動を展開していた。
(1)芝田進午闘争の事実経過
10月14日三崎祭実行委員会が招請した三崎祭講演者、芝田進午(法政大助教授)を学部当局は、
   「日大に批判的なヤツだ、日大の教育方針に合わない。」
         -吉田寛指導委員長(現在経済学部長)談-
という理由のもとに芝田進午氏講演不許可を学生に言い渡す。
10月16日以降,学生の自由な,主体的表現の場である三崎祭の活動に,当局が理由なき理由をもって講演を拒否したことに対し、29日まで連日抗議集会がもたれたのである。
10月17日、当局の手により情宣手段を剥奪されながらも、個人的情宣活動により、700名の学生が、拡大展示部会に結集し、学生の自治活動に対する不当介入に怒りをぶっつけるのであった。
 集会の席上で、学生は講演会拒否を撤回させる為に当局へ代表団を派遣したが、指導委員長以下学部当局は、代表団の正当な要求に論駁することができず、
    「君たちがそんなに芝田進午の話を聞きたいのなら、法政大学に行きたまえ」
                        -指導委員長談-
と学生を馬鹿にした発言をし、自己の犯罪的立場を固持するのであった。
 交渉決裂以後学生は、井出、木村両副指導委員長、橋本学生課長を呼び、大衆団交を行った。
その中で彼らは学生の追及に論駁できなくなると、
   「芝田進午を拒否したことは吉田寛指導委員長の信念であるから。
    学生がいくら騒いでもだめだ。三崎祭以後なら呼んでもよい。」
と、あたかも当局が三崎祭を行わんかのような口調で、学生の要求を拒否したのである。
 当局の犯罪性が大衆的に暴露されたが、結局大衆団交は決裂し、以後学生側は有効な闘争方針を提起し得ず、運動展開がなしえないまま、三崎祭に突入し、芝田進午は三崎祭に呼べず、その以後に講演会を開催するにとどまった。

(2)芝田進午闘争の総括・闘う執行部の成立過程

 芝田進午講演に対する学部当局の弾圧は、学生の自治を侵害するものであり、学問、思想の自由、言論の自由の完全否定である。
 また、日大教育政策批判の理論を持つ芝田氏の講演は、現代の社会、大学から逃避するのではなく、真実を見つめ、それにいかに対決し生きていくのかという、三崎祭スローガン
       「君は大事なことを忘れている」
に答えたものである。
 したがって学生は、講演会とスローガンが密接に関連するという意義づけのもとに闘争を展開したのである。

 芝進闘争は最終的に敗北せざるを得なかった。
 敗北の一要素を作り出したのは闘争の指導部であった。
 三崎祭実行委員会が闘争の過程で当局と数度のボス交を行い、当局の強い拒否と脅迫にあい、闘う方針を提起できえず、集会においても
      「芝進闘争をこれ以上やれば、三崎祭ができなくなる」
という理由によって、学生を押さえにかかることもあった。
 結局この日和見的実行委員会を突き上げる形で運動を展開した研究会の先進的学生が、後半には闘争を実質的に指導したのであるが、この意識的部分においても実行委員会を批判するに止まり、それにかわる正しい闘争方針を提起できなかった。
 すなわち、闘争を実行委員会にまかせ、方針が間違えれば実行委員会を突き上げるという形で運動が展開され、自ら方針を出して闘いえなかったところに主要な問題点がある。
 方針不在で実行委員会を批判しても、闘いを勝利に導くことはできなかった。
 しかし、指導部が最大1、000名を結集して展開したこの闘争は、
      「
芝田進午を呼んで我々の三崎祭を行なおう
という明確なスローガンを掲げ、種々雑多な要求項目を一応退けて進んだ。
 闘争に参加した学生は、理論武装と下部組織化の不完全を総括したのであった。
 最終的に敗北した芝進闘争だが数年間なかった大衆闘争として展開され、その闘争の過程で民主化闘争の為の闘う藤原執行部が生み出された。
 これによって経済学部での民主化闘争が、長期的に展開されることになり、我々学生の闘いの具体的出発点が与えられた。
 まさに学生は、大学権力の一方的学生抑圧政策に対して、自らの権利を獲得するために闘いを開始したのである。

       (学生側製作パンフ=「血みどろの三年間・・・」より)

 
 TOP
ページの先頭
 
   
inserted by FC2 system