決起への道  1958年  1966年  1967年  1968−1  1968−2  1969年  1970年  1971年  現  在
  日大斗争ドキュメント
          1968年
7月〜12月(後半)
 

全生命をかけ、断固バリケードを死守せよ!!

7,8月夏季闘争、日大全学友の大爆発を!

(経済学部前の巨大立看板より)

バリ・スト体制の経済学部本館の遠景(法学部3号館より撮影)
小さく屋上に翻っているのは日大全共闘旗。真っ赤な巨大な旗だった。
(68年5月に神保町の旗屋で特注したもの。当時の金額で 8,800円だった)
1968年9・4の機動隊との闘いに最後まで屋上に掲げられていた。
画面では見えないが8時方向には東大の時計搭の黒旗が見えていた。
拡大すれば窓に張ったスト決行中などの張り紙が見えるはずだ。
また,手前建物に隠れて見えないが,2階ベランダには,各闘争委の
旗が窓から突き出され、ズラリと林立していた。

 
   以下文中、赤色文字は、(注)  茶文字は後入れ挿入文である。
   お断り:1968・1969日大斗争の文中で↓
   *事実経過の文言は,できるだけ「当時のビラ」や「議事録」よりそのまま転載している。
   *ティーチイン・全共斗会議の内容は,現存する経・短学生会(経斗委)の「議事録」よりそのまま転載した。
    そのため意味不明の個所があるが,ご容赦願いたい。
   
*その他、証言については,本人の証言をそのまま記載してある。

膠着の68年7月

公文書封筒 
 経済学部は,何事もなく平和なバリケード占拠の時代でありました。
 けれども水面下では大学理事会との頻繁な文書のやり取りが行われた話し合いの時期でもありました。
 理事会からの使者もきて、なかなか活発な外交交渉の時代でもありました。
 当方の要求は単純でした。
 我々の要求をのめ!
 日大全学生との大衆的交渉に応じろ,とね・・・

1968−7−1(月)
 理系3学部(理工,郡山,習志野)総決起集会が、3:30分より習志野で開かれ、全共斗のもとに結集して斗うことが確認された。
 5時デモに移り,3,000名でジグザグ,フランスデモを展開。6:00解散

 他方,文理学部では,教授会が
 「現下の紛争を収拾する為に,全理事は即時退陣し,事後処理の権限を適当な機関に委譲すること。右決議に対する回答は、7月6日までに文書をもってせられたい・・・」との決議を理事会に対し,要請した。

1968−7−4(木)
経商短2部、スト権を確立
 3:30〜
全学総決起集会
 本日の集会は夏休み策動粉砕と銘打ち,9月全面展開への長い2ヶ月間の闘争の段階的勝利と理工系各部総決起,文字とおりの全学集会であった。
 この日は15学部全部がもれなく参加し、中でも理工学部の3,500名を始めとする理工系が半分近くしめていたことが,著しい特長であった。
 この集会により,日大全学部がまさに,一堂に会したこと,そして今だ我々の力が衰えていないことを如実に示し、7,8月斗争を乗り切り,9月斗争の勝利を確認しあった。
    (参加約一万五千名)

1968−7−5(金)
習志野理工,ストライキ突入。
理工学部=駿河台、スト権確立。
3:00 芸術学部で教授3名と団交。
   @父兄にアンケートビラを配ったことに対する,抗議
   A一年生の水泳教室中止を申し入れ
以上6日正午までに返答を約して,6:00散会

1968−7−6(土)
芸術、5日の件に関し抗議デモ。待機していた200名の機動隊ともみあい。

1968−7−8(月)
理工にて,二部自治会と古田とのボス交
(*注)の情報が入り,経,法から行動隊が行き、  古田,永田,秋葉,鈴木(勝)アワ野、細谷各氏に対し、
    @今までの暴力に対しての糾弾
    A何故古田が理工へ来たのかの追求を行う。
 機動隊に包囲さるも、「大衆団交を前提とする予備折衝を約させ、散会。
   (秋田議長以下約百名)

1968−7−16(火)
午後2:00、本部 鈴木 勝名で公文書来る。
 曰く「学生集会を前提とした,予備折衝に応じる
      (以上、7月16日までの経過※当時のビラより転載)

    *注:ボス交=文字通りボス同士による交渉または,代表による
    交渉のことだが、日大全共斗は,これを全て,否定していた。
    代表同士が話し合う,団体交渉なども,ボス交とみなしていた。
    大学当局との交渉は、古田会頭始め理事・教授など全員と、日
    大全学部・全学生との
         「大衆団交=大衆的団体交渉」
    の場で行う事が確認されていたからだった。
    この方針は,日大斗争の全期間を通じて,貫徹されていくことに
    なる。

   *
これは、日大全共斗が編み出した特別な戦術ではない。
     それまでの、ながい斗い(自治権奪還斗争)の末に獲得した、
     学生側の唯一の勝利の為の方法だった。
     このことは、小冊子
血みどろの三年間に詳しい、参照されたい。

  --以下は「現認報告1968年日大」(経・短学生会議事録)より転載--

1968−7−18 予備折衝流れる。
 この日、鈴木勝、大森智堪2名の理事が姿を見せず、追求
 古田が何故出てこなかったか。そのことに対し、自己批判を求め前記理事の名入りで確認書を取る。

1968−7−20
 7・19 古田会頭宛て文書への回答(公文書)


     回答書
      一、議題に関し
        (イ)日時の設定
        (ロ)会場の設定
        (ハ)所要時間
        (二)出席する者の範囲
      一、学生側出席者は全共斗役員
                    以上


3:55〜本部第4会議室にて、大衆団交を前提とした予備折衝。

   出席:古田会頭、鈴木昇六、藤井勝次郎、東秀彦、秋葉安太郎、佐々木良彦、
       加藤一雄、鈴木勝、大森智堪、永沢滋、斉藤謙次(以上理事)
       永田菊四郎、高梨公之、大塚某、吉田寛、片山某、河原茂太郎、
       鈴木知太郎(以上学部長)
       宮沢善高、細谷英夫(以上職員)

 追求点:
@古田会頭が18日欠席したことについて自己批判させる。
A議題の確認
B全共斗提案について
 T 8月4日(日)、法1号館大講堂、1:00〜5:00
   全学生、古田以下全理事、全学部長、及び責任もって回答できる者
   条件として、組織的暴力学生は入れない。
   全共斗が唯一の学生代表であるから、全共斗がこれを主催する。
   確認点を6新聞、3回にわたり、全国版で広告する。   以上 

 この予備折衝で古田会頭は、「大学としては、大衆団交という言葉は使わず、全学集会とする。なぜなら、学外の団体、たとえば、護国団云々という団体から、宣戦状がきている。もし当日、何か事が起ったら大変だ」といって、最後に、「私は責任者として一言注意しておきます!」との発言によって、一応話がまとまった。
 その他の議題については、比較的たやすく決定され、新聞広告についても一致を見た。
 古田以下全理事の「確認書」を取る。

(PM)7:00古田会頭が本部を出たのと同時に、機動隊約50名が三崎町交差点に配置され、経済に引き上げるデモ隊に対し、挑発行為を行い、小競り合い、芸術学部をはじめ21名、検挙さる。
 更に機動隊は、抗議の姿勢を持って、神保町方面に向かった芸術学部デモ隊に対し突如襲撃。

7月21日
(午前)1:30  法、理工、経済、津田沼。昨夜の、警察機動隊暴挙に対して、神田警察署に抗議デモ。
神田署前でシュプレヒコールをあげたとたん、警察前に待機していた、機動隊員が襲いかかり、デモ隊を蹴散らし、68名が検挙される。

7月24日
 古田会頭より、大衆団交を無期延期する旨の「申入れ書」くる。

 
 @7・20予備折衝において、会場外に学生を配置させた。
 A会頭が帰宅する際、タクシーを妨害し、更に激しいデモを行い、多数の検挙者を出した。
 B付近の商店街から苦情がきている。
   等の理由。


7月27日
 ・抗議文 全共斗→古田
  「20日に機動隊を使い、我々を弾圧したことに、厳に、抗議する」
 ・通知書 全共斗→古田へ
  「24日出された、一方的な大衆団交破棄の通告に対し、全共斗は、大衆団交の破棄者に対し、断固それを排除する」ことを強調。

29日
 ・古田→全共斗
   「具体的身の保障がない限り、大衆団交は無期延期する」旨の文書がくる。

30日
 ・全共斗→古田へ 「回答書」
 「29日付け文書の、一方的破棄に対し、抗議するとともに、出席者の身体の保障の決意、当局の機動隊導入に対する抗議、そして当局がもし、大衆団交を一方的に破棄するならば、我々は今後当局を信ぜず・・・・・・・・・・  古田会頭に対し、27日付文書の撤回を要求する。」

31日
 ・古田→全共斗 「申し入れ書」
 「24日付文書に対する回答(出席者の身体保障)がない限り、大衆団交無期延期の態度は変えない、旨の『申入書』くる。」

8月1日
 最終的に、「大衆団交を無期延期する」旨の文書がくる。

8月2日
12:30 右翼学生約8名が正門前にビラを撒く。
2:00〜 経済学部7階で全学集会。(参加約1、500名)
 大衆団交を一方的に蹴った卑劣さの暴露、そして、8・4大衆団交に向けて、全共斗は万難を排して臨む旨の確認。
5:00 デモに移る。デモ隊が神保町交差点にさしかかった時、突如機動隊約200名は、隊列後方から襲いかかり、隊列側面のヘルメット部隊と、後方一般学生に対し、暴行。
 一般学生2名を隊列の中から引き抜く等の暴挙に出た。検挙

8月4日 8・4大衆団交の日。古田以下当局者はついに姿を見せず。
2:00〜 抗議集会とする。(3、500〜4、000名)

6:30 神田周辺に、機動隊約2、000名が待機。
 帰りは衝突もなく、各学部ごと、隊列で解散。

8月6日 記述なし

     --------------------以上

                        (以上当時の議事録より)

 
 


★新宿で大カンパ運動を展開、おかげさまでこんなにいいのかな?と思う位に斗争資金が集まりました。
 お茶の水駅頭や水道橋駅などでもやりましたが、主にあの新宿の西ロ地下広場でのカンパ活動が多かったように記憶しています。
 それに集会やデモの時にへルメットを持って回るととにかくみんな力ンパをしてくれました。一つのメットの中に千円札が何枚も入っています。
 学部前,白山通り,神保町路上集会などでカンパ封筒、ヘルメット募金を集計すると・・・りュックに一杯つめると3つか4つにギッシりと金、金、金です。
 もう人の手では持ち上がらない程です。
 それを何人かでズルズルと引っ張っていってやっと近くの銀行に。
「両替して下さい」
「!!!」
 銀行員は絶句してしまいました。
「ちょ、ちょっと中で相談を・・」
 やがてもみ手をしながら奥から別の行員が・・・・
「すぐに数えるのはムりなので、当行にロ座をお作り下さい。少し時間を下さいませんか?」とニコニコ顔で・・・
 近くのハンコ屋に走り「秋田」という三文判を買ってきて通帳を作りました。
 何しろこの当時は何かするときには,合意事項に関してはメンバーそれぞれが「秋田」名で、動き回っていましたので…
 どこの銀行かもう忘れましたが神保町本屋街の書泉近くの角の銀行です。
 日大全共斗のメインバンクの第1号です。
 資金面は0Kです。潤沢な資金がありました。
 でも大切な大切な斗争資金です。
 大勢の人が一生懸命に力ンパしてくれたものです。
 会計部は執行部財務部長の田中良彦君がガッチりと握っていました

 その田中良彦君も、今はもう故人となっています。
 2000年の暮れに病没されました。
 謹んで,お悔やみ申し上げます。
          

★東大の安田講堂の本格的封鎖の支援要請が東大全共斗から来た時の事です。
 主なメンバー20名位集めてわいわいとその旨相談して金を渡し、ペンチ百丁とバン線他の道具類の代金を渡して調達に走ってもらいました。
「領収書貰うの忘れないでね!」
 調達の下級生の背中にむけて声を掛けたのはもちろんです。
 日大全共斗のエ作隊約百名はただちに完全武装姿でペンチを手にバン線(針金の事)を肩にして安田講堂の三方の出入ロや周辺、階上の窓などを全て強固なバりケ一ドで完全封鎖してしまいました。

 それまではここ安田講堂のバりケ一ドとは!何と信じられない事に、机がただ積み上げてあっただけだったのです。
 ちなみにその時の代金まだ東大全共斗から返して貰ってません・・・
と言ったって、もう時効か?・・・

 同じような事、慶応大学でもやった覚えがあります。

 とにかく日大全共斗(経斗委)は他から要請があればどこへでもでかけていきました。

 

質問=日大全共斗の作ったバリケードってどんなものですか?
実際に見せてください。
答え=写真でお見せします。こういう感じです。

(写真)

 これは68年6月の第一次バリケードです。バン線でしっかりと留められています。
(1968年6月13日深夜に撮影。いまだ未完成。)
68年9月、再占拠以降の第二次バリケードは、これとは比較にならないほどに頑強に構築されました。(こちらは写真、非公開です)
(写真無断使用不可)

               

1968−8パンフ「日大体制下での血みどろの三年間」発行
                     
(全文掲載)→こちら参照

 

 
 

1968年9月3日 なぜかエレベーターの点検が入った。写真

 風雲、急を告げる時がきた 

1968年9月4日(水)

経済学部,法学部に機動隊導入、バリケードの封鎖解除!
 
9・4封鎖解除の模様  (私は、見た。理工学部からの証言)
       HP 「1968年全共闘だった時代」よりリンク
                               

1968年9月5日(木)〜9月13日(金)まで連続斗争,
 そしてついに2学部奪還再バリケードへ!

 連日激しい武装デモと街頭斗争が繰り広げられました。
 毎日です。
 日大全共斗議長の
秋田明大君は、アジリにアジリます。
 封鎖解除でバリケードの中にこもって徹底抗戦した経斗委・法斗委の全共斗主力は全員パクられてしまっています。

 学部前に集合した部隊が出撃します。
 経斗委・法斗委を中心とした精鋭のゲバルト部隊です。
 国家権力機動隊による封鎖解除の際,学外に展開した比較的少数の行動隊です。
 他学部の応援部隊も駆けつけてくれました。
 日大全学部学生の総力を上げた戦いが開始されました。
 ほとんどの者がパクられました。

 翌日別の新入り部隊がまた出撃します。またパクられます。
 その翌日別の新入り部隊が集まります。
 今度は留置場から帰った者が合流します。
 また出撃して………キリがありません。
 行動隊のまわりには万を越す大衆が取り巻いています。
 神保町一帯は人の群れで埋め尽くされていました。
 この時には路上の石ころまでが全共闘の味方でした。
 機動隊はことごとく敗北しました。
 警視庁機動隊は日大生たちに追い詰められて,悲鳴をあげて、バラバラになって潰走していきました。
 このとき,機動隊の犠牲者が出なかったのが不思議なほどです。
 機動隊員は,逃げるのもうまいようでした。
 この時ばかりは,逃げて,逃げて、逃げまくる・・・・という感じでした。
 日大生の怒りは,ものすごいものだったのです。

         神保町・書泉前の激闘
          
(新聞写真・素手で機動隊を追い詰める日大生)

1968−9月の一連の街頭斗争は
 国家権力機動隊の惨めな軍事的敗北の連続=文字通りの潰走でした。
どの闘いでもそうでした.
 この一連の斗いの中で,機動隊はただの一度も市街戦において日大全共斗に勝利したことはありませんでした.
 このとき全共斗は湧いて出るように次々と再生されていくのでした。
 行動隊に志願した者はゲバルトなんかやったことのない学生がほとんどだったのです。

 新調のヘルメットに新しい角材を持って続々と出撃していきます。
 多くの者がそのまま権力の檻の中へ…中にはパクられてから手錠のまま,機動隊員を何人もなぎ倒して帰還する者も…
 それが一人や二人じゃなかった。(なぎ倒した本人の証言)
 あらたなる豪傑たちの誕生です。
 その日に帰還しなかった者も,一晩くさい飯を食って(くさい麦飯だけと,栄養は満点)権力の檻の中で十分英気を養って、翌日になるとたくましい顔つきになってニコニコとして帰ってきます。
 それでまた翌日同じ装備で出撃です。
 合言葉は「ゴクイリイミオオイ=591-1301」と「黙秘します」でした。
 
日大全共斗の完黙=完全黙秘の態度はパクられたほとんどすべての者が、一切喋らないという徹底したものでした。
 取調べの際、話すことは「黙秘します。弁護士を呼んでください。」 この二言の繰り返しのみでした。
 この完黙は、この後もずっと続き、ついに日大全共斗の伝統といわれるまでになりました。

 (当時の取り締まり側の皆さんへ,あなた方はあの時,こういう奴らを相手にしていたのですよ)

 日大全共斗はこのとき,質量ともに飛躍的に増強されました。
 この実力が後に経,法の2学部を国家権力の手から奪還した力になったのです。
 
経済,法学部前は人,人,人、で埋め尽くされます。
 まことに不思議な奇跡のような日々の連続でありました。

 このとき,天地のすべてが,私たち日大全共斗の味方でした。
 迷惑を受けたはずの近隣商店の人も,学生の父兄たちも,通りすがりのサラリーマンも,そして信じられないことには地元警察の警察官たちもとても同情的でした。
でも一番の味方は歩道の敷石でした。
 みんな石を投げました。
 目標は警視庁の公安機動隊です。
 このとき,警視庁機動隊は社会のすべてから完全に孤立していました。

    後日談:
        これは、後年に,明らかになったことですが,
        まことに信じがたい話があります。
        日大闘争の期間中に、部隊の出動命令に抗命して,
        公然と出動拒否をした機動隊員がかなりの人数いたそ
        うです。
        (これは15年くらい後になってから、当時の警察官本人
        [複数]の証言から明らかになりました。
        これらは僕らも知らなかった事実です。)
        もっとも彼らは即日,首切りになったそうですが…
        チリ事件(ピノチェトの軍事クーデター)の時のように銃殺
        にならなかったのが幸いでした。

  ★人質を取って、学生の投石から逃れようとする、機動隊。
  よく見てほしい,彼のジャンパーには,血が・・・
  このような場面は,毎回のデモのたびに繰り返された。
  当時の警察関係者に問いたい。
  学生を盾にする行為は、部隊および,警察ぐるみの行為だったのか、と・・・・

**に続く

 
 

★敵を知り己を知れば,百戦危うからず(孫子の兵法より)
★それでは、機動隊のページを見てみましょう。(参考、サービスです)
 ご注意:気分の悪くなる人は飛ばしてください。

警視庁機動隊とは

機動隊のページ

機動隊車両集(現代版)

なつかしの指揮官車
ヤグラ上の指揮官が全共斗に追い詰められて,危なくなって
「こいつら,バカヤロウ,やめろ!やめろ!」
なんて手すりにしがみついて、よく真っ青になって
悲鳴をあげていましたよね。
マイクをつかんだまま叫ぶものだから恥の上塗り、
部下にしめしがつくのかい,ッてなものだったね。
(目撃者の証言)
そのあとどうなったかって?それは想像してみてください。
ここでは書けません。
★「カマボコ」も見たいという人は上のリンクの中から
探してみてください。

 
 

<9月斗争ドキュメント>

68年日大闘争における催涙弾問題     60年安保編はこちらを・・・・

思い出の催涙弾 −その1 発煙筒タイプ−
 投稿者:催涙太郎   2003
9月 6日(土)

 日大闘争が始まった頃の催涙弾は、長さ20数センチの発煙筒タイプ。
 弾頭は平ら。専用の銃で空に向って放物線を描くように打ち上げ、鎮圧する集団の先頭列から数メートル後ろあたりに落す。
 あまり後ろに落すと機動隊と直接対峙する連中の鎮圧にならないからでしょう。
 射程距離50−60メートル位か。
 発射直後から薄い煙を上げながら飛んで来て、落下すると一層激しく催涙性白煙を噴出。
 目を刺激し、濃い煙を吸い込むとセキ込む。確かに涙が出るが目をこすらないようにして涙を一杯出すか、水びしょびしょのタオルを目に当てていると症状は治まる。
 風下にいれば被害なし。
 催涙弾を発射する隊員は特別の担当らしが、勝手には撃たない。
 小隊長が「構え」と言うと構え姿勢をとり、「ていっ(撃てと言ってるらしいがこう聞こえてた)。」の号令で発射していた。

 発煙筒タイプを打ち込まれた時は手を火傷しないように軍手をつけて投げ返す。
 すると激高した機動隊員がこれをまた投げ返す。
 こちらもまたまた投げ返す。
 繰り返しているうちに煙が出なくなる。風があれば煙は大気に薄められる。
 機動隊員はガスマスクなんぞつけてない。シールド面つきヘルメット姿。
 楯を持っているので濡れたタオルで眼痛症状の緩和処置もできない。
 機動隊が発射する発煙筒タイプ催涙弾は機動隊員諸氏を制圧する効果の方があった。

思い出の催涙弾 −その2 新型P型ガス弾-

 68年10−11月頃であったろうか、新型の微粉末炸裂タイプの催涙弾(正式名称はP型ガス弾と言うらしい)が同時に使われ出し、やがてこればかりになる。
 発射後、数秒の着弾点で「ボンッ」と弾が破裂して催涙性微粉末が飛び散るタイプ。
 確か発煙筒タイプよりやや長く先がとがっていた。

 粉の正体は後に国会でも取り上げられたが、ベトナム戦争でジャングルに潜んだベトコンを追い出すために戦略爆撃機で大量散布した「枯れ葉剤」そのものであった。
 妊婦・胎児への悪影響が著しく「ベトちゃん・ドクちゃん」等の先天性障害者をつくった原因物質である。
 又、煙と違って飛散した粉がいつまでも落下地点に留まる。
 戦場となった商店街や駅では何日もこれを吸い込む。
 目への刺激より気管に入った時の咳き込み症状が激しい。

 弾が破裂するので打ち込まれると一瞬ひるむ。当然、投げ返せない。
 破裂前に投げ返そうとした勇敢な同志がいたが、スナップを利かせてる最中に顔の横で炸裂し、真っ白け。
 瞬時に歌舞伎の女形になった。
 周囲の者が「おや、まー」と言ったかどうかは記憶に無い。
 粉が服に付着すると簡単には落ちず、しばし仲間はずれになる。

 先がとがっていて重量も増したためか、標的に向ってかなり正確に飛ぶようになった。
 あまり上空に打ち上げずに角度のある放物線、つまり発射角度が低くなった。
 校舎の窓に向けて撃つとガラスを貫通して室内で破裂する。危ないんだよ。

思い出の催涙弾 −その3 顔面水平撃ち−

 忘れもしない69年1月18日。
 御茶ノ水での東大安田講堂闘争支援集会へ出発前。
 バリ校舎前で学部決起集会を開いていた。
 本郷方向に向う消防車を発見。
 誰かが止めて「まさか安田講堂に放水に行くんじゃござんせんでしょうね」と優しく聞く。
 消防士曰く「後楽園方面で火災発生の報があり出動中でござんす」
「それはそれはご苦労なこってス。お気をつけておいきなせい」とお見送りしたが、これが真っ赤なウソ。
 夕方のテレビニュースで安田講堂に放水している姿が映っていた。ユニフォーム組は信用できん。

 次いで機動隊の装甲車が差し掛かる。
「止めちまえ」見事な反射神経の日大全共闘。山賊もどき。
 投石を始めるが後ろ数台の装甲車から機動隊員が降りてきた。
「やばい。校舎に戻れ」2階ベランダから見渡すと、皇居方向に延々たる装甲車の車列。
 取り合えず先頭車両に投石していると、投石防御ネットを持った隊員とガス弾銃を持った隊員がおりてきた。
「構え」の指示も無く銃を私に向け、「ていっ」とも聞かずに引き金を引きやがったのじゃ。
 真正面から顔面に向ってガス弾を撃たれた経験者は手を上げて…、おらんじゃろう。
 弾の丸い頂点が段々大きくなって飛んで来るんじゃ。
 とっさに首を傾けると後ろの壁ではね飛んだ。
 催涙弾の種類なんぞ覚えておらんがなもし。中学で剣道をやってて良かった。

 心に余裕ができて…?、機動隊が可哀想なもんで投石を止めてベランダに隠れていると、行くは行くは機動隊の車両デモ状態。全国の機動隊車両が大集合してたんだそうな。
 こん時からじゃな、機動隊が催涙弾を相手に向って水平に打ちだしたのは。
 しかも銃を持った奴が自分の好き勝手に打ち始めたのは。あな恐ろしや恐ろしや。
 後の成田闘争では救急班の女性
(管理人注:実は男性=東山さんの事か?)の顔面を撃ち、殺してしまう事件があった。
 あな恐ろしや恐ろしや。

思い出の催涙弾 −その4 バケツ式ガス弾戦−

 全学部の日大全共闘や、明大・中央大等々の全共闘・セクト諸君が中央大学中庭で東大闘争支援集会を終えて街頭に出た途端、町の中は機動隊の群れ。集会から出てきた学生を包囲していた。
 学生投石開始。機動隊催涙弾発射開始。
 飛んでくる催涙弾はみんな新型P型ガス弾。ほぼ水平に多量に飛んでくる。
 危ないッたらありゃしない。

 誰かがゲバ棒をバット代わりに打ち返す。校舎から持ち出したテニスラケットで打ち返す奴もいる。うまいもんや。
 これなら優勝ホームランと思いきや、打った拍子に破裂したり、空振りして後ろの奴を直撃する。
 
 ならばと校舎からバケツを持ち出して、飛んでくるガス弾をガランゴロンとナイスキャッチ。
 イチローもどき。路上に落ちたガス弾にすかさずバケツをガバッとかぶせて数秒待つと、バケツの中でボンッと炸裂。
「ガランゴロン」「ガバッ」「ボンッ」これを何度も繰り返すうち、路上にガス弾の白い粉の小山が沢山できる。
 この白い粉を手ですくいバケツにかき集め出した天才が現われた。
 さすが日大全共闘、東大のように学力は無いが知恵はある。さぁーお立会い。
 なんだか楽しいことを考えた。
 確か経済3闘委の彼等である。

 機動隊の戦術は、しこたまガス弾を叩き込み、学生がひるんだ隙に突撃をしてくる。
 しかし当日はバケツのお陰でガス弾の効果半減。
 おまけに電光石火で敷石が投石用石に作り変えられ投石の雨やまず。
 後退しない時の機動隊は道路幅一杯、横1列に楯を構えて並び、その楯の上に2列目の隊員がまた楯を並べ、更に3列目の隊員が天井をつくるように楯を並べ、丁度、半かまぼこ状態の壁を組んで投石を防ぐ。
      

 各隊員の一糸乱れぬ行動でタテ140センチ・ヨコ60センチの楯を組み立てて1個中隊ぐらいが入れる防壁を作るのである。お見事にも。

 粉がそこそこ貯まったバケツを下げて、ガス弾三勇士、機動隊の防壁に近づき、やおら下から2段目の楯を剥がしに掛る。
 剥がされまいと隊員抵抗するがやがて力尽き、空いた隙間からバケツの粉を振り掛ける。
 中から隊員の声がする「ゲホゲホ」。
 有毒な粉を吸ってしまったらしい。かわいそうに。

 皆でバケツ4−5杯掛けてたら、粉が無くなった。
 機動隊の防壁の中で咳き込む奴が増えていた。
「ガス弾を撃ってこーい」と皆でお願いの声を上げたが撃ってこなくなったので、この作戦は終了した。
 当バケツ式ガス弾戦の話は後にも先にも聞いたことが無い。
 人類史上、最初で最後の作戦となったようだ。

 
 

<噂の真相>

全共斗,習志野ならず者部隊(別名パチンコ部隊)
  投稿者:経史郎  2003

 その事件は、翌日の新聞報道によって、発覚した。
 いわく、「書泉、ガラスに弾痕!全共闘散弾銃を使用か?」
さー大変です。もしこれが本当ならば、戦いは、我々全共斗のあずかり知らない間に銃器での戦いになってしまいます。
 懸命に調査が始められました。
 ところが、現場にいた多くの者たちの証言によれば、銃声を聞いた者がいないのです。
 さらに調査を重ねました。ついに犯人を突き止めました。
 なんと彼らは習志野から経斗委のバリに泊まりこんでいた学生たちでした。
 その名も「経斗委習志野ならず者部隊」
 付属校出身(日大豊山出身の習志野生産工学部のグループ)の「江沢君」を中心とした部隊でした。
 彼らは手に手に石投げパチンコを持ち、機動隊を狙い撃ちしていたそうです。
 アー.危ない…
 その中の数発が「書泉」のガラスを打ち抜いたということでした。
 なーんだ、あぶなく権力の謀略情報に乗せられてしまうところだった。
 パチンコとは、なんと有効な武器か!
 制式ではないにせよ、その後の戦いや、東大闘争でも使われたということです.
 でも、恐怖にかられた機動隊のガス銃水平撃ちに比べればずっと安全な武器ですよね.

 

 
 

**(本文の続き)
 なにが学生大衆をここまで激しい斗い、犠牲を省みない闘いにかリたてたのでしようか? そう、それはあの血の6・11事件のいまだ覚めやらない記憶です。
 この勝利は、あの日の血の犠牲の上に築かれたのです。
 デモ隊列の中から憎しみのこもった「古田殺せ!」の掛け声が聞こえてきます・・・
「“殺せ”というのは、大衆闘争のルール違反の言葉だ!みんなこの斗争の本質を見極めよう!」
 デモ指揮者が何度制止しても,隊列の中からやがて沸き起こり,この「古田殺せ!」はデモてい団全体に伝染していきました。

 

1968-9-12(木) 経済・法学部校舎奪還!
 やったぜ!ついに奪還だ。

 封鎖解除以降も全共斗は連日の激しい戦いによって,毎日経法2学部を再占拠していました。
 9月5日 、9月6日、 9月7日、 9月8日、 9月9日・・・・・・・・・・
 9月12日に至るまでズーッと毎日です。
 この中のある日になぜか校舎に居座ってしまった。
 正確な日は誰に聞いてもわかりません,何しろ毎日校舎を占拠していましたから・・・・・

     仮処分執行 立ち入り禁止
                裁判所

の看板が校舎2階のベランダに掲げられていました。
 裁判所の公的掲示物です。
 現場確認のため,文言を一応記録しておきました。
 その後現場に戻ってみると,その看板がないのです。
 あわてて探してみると、下の路上に投げ捨ててあるのです。
拾ってもとの場所に・・・
 その後また路上に投げ捨てられている・・・
 誰が捨てるんだ・・・・・・・
 秋田氏が「看板はそのままにしておくように」とみなに言いました。
しばらく後の事・・・・・・
 下級生の一人が私たちの目の前で、これ見よがしにそれをひきちぎって、ベランダから投げ捨てました。
「こんなもんは要らないんだよなー!」大声で叫びながらです。
「おい、おい,それは裁判所の公式掲示だぜ・・・」
「関係ないじゃん!こんなもん,権力なんてクソくらえだ!」
 彼らの目は怒りに燃えていました。
 その後そのベニヤ板製の看板は二度ともとの掲示場所に掲げられることはありませんでした。
 めちゃくちゃに粉砕されて,ごみ箱行きになりました。

 9月斗争経済学部=白山通り

1968‐9‐19(木)
全共斗→古田宛  要求書「大衆団交要求、5大スローガンと要求項目詳細」

経済総決起集会
1:00〜(学部内で)
     @総括
     A本日の位置ずけ
     B我々の任務
  古田を大衆団交に引きずり出す。
  24日1:00に大衆団交を要求
  21日8:00までに回答を求める

スト貫徹100日総決起集会
3:00〜 法学部一号館大講堂 
(予定)21日全学総決起集会
6:15散会
 各学部ごとに隊列で帰る
 機動隊は武装せずに待機
文理→約2,000名文理銀ヘルメと一般学生は三崎町付近を,渦巻きデモ
で埋めた。

経済学部ティーチイン(33番)   6:50〜
 本日の集会はバリケード100日を記念するものではなく,再度考える時であり,今後の厳しい斗争を−−−
 勝つということは大スローガン貫徹支配者側からの一方的な譲歩では,この斗争は勝利し得ない。
 全理事が我々学生の前に手をついて謝り,その上での全面的な勝利でなければ,これは勝利ではない。
 我々の斗争は「組織せよ」に尽きる。→人間バリケード
 自主管理の中での講座を中心にする我々の理論構築→による組織化
 9月4日以降の大爆発---全共斗の
 20日→古田に要求項目を出す。

医学部スト突入!

1968-9-21(土)
 午後8:00古田より文書が来る。
   「いわゆる第四改善案」 

                   (当面の対策)
中間総括文           バリケード破り用の防護策
回答書論破文          クラス・サークルでの討論
討議資料
      タテカン
      新聞
 幻想を打ち破り,一つ一つの完全な論駁をして大衆に示していく。

1968‐9‐22(日)
京浜労働問題研究所 労働者18名と討論
(*注)

 (*注)9・30大衆団交を直後に控えて,活動家各自は体がいくつあっ
     ても足りないくらい多忙な時期だった。
     そんな時、経済学部の封鎖された正面玄関前に,平服の男女
     の集団がデモ隊列で,現れた。
     「日大斗争,勝利!労働者は戦うぞ!」
     殺気立った我々の目から見れば,えらくのんびりとした集団に
     見えた。
     彼らの代表格の年上の男が「全共斗の諸君と討論したい」と
     言ってきた。
     (討論ー?このクソ忙しい時期に、のんびりとー?)

     「討論だって?いいじゃないか,やろう」
     経斗委委員長(鳥越君)が言った。
     さっそくバリの中に招じ入れ、会議室を用意して2時間ほど討
     論をした」
     この時,経斗委の面々は,懇切丁寧に彼らに応対していた。
     最後に今後,ともに戦うことを誓って解散した。

     忙中閑あり,というところか・・・

1968‐9‐23(月)
古田→全共斗へ、回答書


  24日,衆交(=大衆団交)には出ない

                            旨、回答あり

1968‐9‐24(火)
全学総決起集会 (9・24大衆団交) 法一号館大講堂
 21日古田の提示した回答書=第四改善案の欺瞞性を暴露,粉砕。
 当局によるイデオロギー攻撃に対し,全力をあげ打ち破り,
 9・30に再度大衆団交を要求、これを最後通告とし,
 もし当局がこれに応えないならば,今後,全共斗は永久に斗争を行う。---」旨、提示。
           (約5,000名)
 6:10 行動方針提起 白山通りを徹底したデモで埋める。
 機動隊,1〜5機迄出動するも,情報のデマにより,新東京ホテル前に移動。
 デモ隊との衝突はなかった。
         徹底的なデモ
  三菱銀行前←−−−−→水道橋駅前まで。(デモ隊6〜7,000名)
 7:15 文理,芸術行動隊は,本部を封鎖。
 8:00 総括集会ののち,各学部ごとに解散。
   ------------------------------
8:10 経済学部テイーチイン(33番)
    @本日の総括
    A我々の任務
 第四改善案の意味するところ−−−ー→我々の総括 9・4まで,当局は徹底した武力弾圧を強いてきたが,それ以後は徹底した思想攻撃をしてきている。
このような中で,組織せよ、組織せよと言ってきたが,あまり実現できなかった。
 本日改善案=イデオロギー攻撃を大衆の前で粉砕したのだが,今,古田は我々以上に打撃を受けている。
 9・24の我々の弱さを確認せよ。
 第四改善案についての各人の戸惑い。
 本日からの第四改善案についての徹底的な討論が必要。
 改善案に対する批判が徹底的になされてから始めて,我々の理論武装,また,組織化ができるのだ。
     @改善案の粉砕,分裂策動を粉砕。
     A本部中枢の国家権力への売渡しを封じた。
     ○理論上の問題と組織化の問題−−−今後
 古田も追い詰められている。←−−−→全共斗も追い詰められている。
               分かれ目であるのだ。

1968‐9‐25(水) 記述なし

1968‐9‐27(金)


  要求書 全共斗→古田へ
     9・30大衆団交再度要求
     法一号館大講堂

 

    *以上,経・短学生会記録帖5(当時の議事録)より転載

 日大の全共斗の学生は、自分たちが大学当局によって、追い詰められているのを知っていた。
 ギリギリの攻防戦が始まった。勝利か壊滅かである。
 敵は,大学当局だけではない。
 警視庁公安機動隊の背後に,霧に隠れた魔物のような巨大な何者かの姿をおぼろげながら見ていたのだ。
 彼らは,それが何者なのかをこの直後に、早くも思い知ることになる。
 だが,実際には,彼らは敵を極限まで追い詰めていたのだった。
 ついに彼らは,敵の本当の姿=その全体像を白日の下に暴き出した。
 それは,かつての三井三池闘争における「総資本」なるものの正体であり,日大闘争においては,言ってみれば,剥き出しの国家権力の暴力=「総権力」というべきものであった。

 日大全共斗のおバカな斗いは続く。

 
 
   

1968年日大斗争-9・30大衆団交

史上初の大衆団交

 
 

 それは,前日(9・29)の夕刻、18:30頃の事である。
 日大本部の古田会頭からの使者が経済学部本館に現れた。
 あれほど拒否に拒否を重ねていた大学当局=古田が学生大衆に会うというのだ。
 ただし,学部から離れた場所、両国講堂(旧々国技館のドーム屋根の建物)で・・・・・
 しかも当局主催の学生集会と銘打つ集会で・・・・
 学生側=全共斗は,色めきたった。

1968‐9‐29(日) 古田→全共斗  PM6:30頃、通知書が届く。


   

「通知書」  
      日本大学・学生集会
      日時:S43年9月30日
          PM3:00〜5:00  時間厳守
      場所:両国講堂
      ヘルメット,角材,マイクを持ち込まぬこと。
      大学主催であるから,大学の指示に従うこと。
      静穏な集会を行うこと。

 急遽、全共斗(活動者)会議が召集された。
 各学部の猛者たちが経済学部三階の教授会会議室に続々と集合する。
 広い会議室の巨大なテーブルのまわりに活動家が群がる。
 中には,テーブル上に座り込んでいる、お行儀の悪い奴までいる。
 参加人数が多く、座りきれないからだ。
 部屋に入りきれない奴はどうする?
 開け放ったドアの外の廊下にたむろしているのさ・・・・・
 外にいる連中でも、審議の途中で発言したくなったら,部屋に飛び込んで怒鳴るのさ・・・・・「異議ありー」ってね。
 その数、議場内だけで、百名以上。
 この会議への参加資格は、各学部ほかの斗争委員会のメンバーである(自称でもよい)という一点につきる。
 ほかに何の資格も要らない。
 全共斗の会議は,日大斗争の全期間を通じておおむねこの様であった。
 方針、戦略戦術、要求項目、決定、の全てがこの全共斗(全体)会議で行われた。
 もちろんこの会議の審議事項については,各学部斗委で練り上げてきたものである。
 だがこの日の会議は、わずか1時間程前に当局より文書で通告があった翌日の学生集会対策の緊急なものだった。
 この会議が「日大全共斗」の目に見える実体である。
 この会議こそが、世に言う「日本大学全学共闘会議」なのである。

1968・9・29
日大全共斗(活動者)会議  経済学部三階教授会会議室
 9・30全学両国集会は古田の側から提示されたゴマカシの集会の内容を粉砕することにある。
 この集会(9・30大衆団交)において古田のヘゲモニーを奪い取り,当局の準備した集会を破壊して彼らを弾劾し,自己批判をさせたあとに,大衆団交を設定する。
 全共斗は古田のゴマカシ集会の破壊の意図を意思一致して,両国に望むべきである。

<9・30行動予定>
 12:00〜 経済学部総決起集会 経済学部一号館前
       Tel連絡
 1:00〜  総決起集会
 2:00    出発
 3:00    両国着          (当時の議事録より)
------ー-------------------------------------------------------

1968年9月30日(月) 両国に結集せよ。
 前代未聞,史上初の大衆団交  

1968-9・30大衆団交当日
 当局側は,両国講堂に万全の布陣を敷いて,待ち構えていた。
 当局がもっとも腐心したのは、共闘側の学生たちの組織的な侵入を阻止することである。
 そのため,講堂の外には,国家権力機動隊が十重二十重の包囲陣を敷き,講堂内外には,大学教員・職員をはじめ、右翼体連、応援団、大学OB、校友会員、付属高校教員・職員などなど総力を上げ、あらゆる場所に巧みに配置を完了していた。
 両国駅には,歩道を囲むように、大学職員,右翼・体連、制服警察官が,旗ざお・ゲバ棒ヘルメットなどの凶器?の持込を阻止すべく,警戒陣を張っている。
 駅から両国講堂までの180mほどの道も同様のありさまであった。
 大学側の学生検問は、正面入口の検問所周囲一帯を右翼体連が取り巻き,人垣を形成して,入場者の面通しをしている。
 入場者は,その人垣に囲まれた人一人がやっと通れるかの通路を通ってようやく会場へはいれるのである。
 なんとしても,不逞の輩=全共集団の侵入を防がなければならない・・・・
 黒服の塊の中には,機動隊各部隊と無線交信する私服刑事も混じっている。
 神田三崎町経済学部前では,全共
(*注)が集会を開き,気勢を上げている・・・・
 一方,講堂内には一般学生の発言者を威圧すべく,会場全体に体連が巧妙に配置されていた。
 ほとんど右翼体連の全面的な占拠状態といっていいほどである。
 会場最後部、最上階の放送・照明室は,万一に備え,事があればマイクや照明を切断する手順なども万全に整えられていた。
 重包囲の中,共闘側は「当局御製の学生集会」の会場に果たして到着できるのか?

(*注)全共=誤植ではない。右翼体連側は,「全共斗」のことを「全共=ゼンキョー」と呼び、けして「全共闘」などとフルネームでは呼ばなかった。
 他方大学側は,共闘(キョートー)または,共闘の諸君と呼び,やはり全共斗とは言わなかった。

●9・30大衆団交の詳しい内容は,文斗委編「叛逆のバリケード」参照」

  古田冷や汗で弁明。他の当局者はあっちゃ見たりこっちゃ
          見たり・・・わしゃ知らん,
        古田一人が悪いのさ、なんちゃって....
       経斗委は壇上右端にかたまっています。
            「ひたすら記録しよう」
    日大古田理事会への要求書を書いているところです。

              両国日大講堂・930大衆団交写真 

                          

              両国日大講堂(旧両国国技館)

大 衆 団 交 と は ?

 Q:普通言われる労組などがよくやる「団体交渉」と,日大全共斗がやった「大衆団交」とはどう違うの?
 A:.普通の団交というのはたとえば労組の執行部の代表団の何名かが経営側の役員何名かと交渉して話し合うってものじゃない。
たまに灰皿が飛んだりする程度じゃん。
言ってみれば代表同士が交渉するってぇのが普通の団交なんよ。
ところが日大全共斗の要求した大衆団交と言うのは,ちょっと違うんだよね。
学生全員がその交渉に出席するのさ。
それでもって当局側も理事、教授など、全員出て話し合えというものだったのさ。
 Q:へぇー,でもそんなことしたって話がまとまるわけないんじゃない?
 A:そう思うでしょ,でも違ったんだよなー,事実は小説より奇なり、ってやつでさぁー、
すっきりとまとまっていっちゃったんだよね。もっとも、まとまるまでに12時間はたっぷりかかったけどね。
 Q:そんなこと考えられないなー,その証拠と言うのはあるの?
 A:大衆団交議事録を読めばわかるよ。当時文理斗委中心でまとめた「反逆のバリケード」と言う本に全文掲載されているよ。(マジな口調になる。)
 Q:さよか、さっそく読んでみよっと。ところでその本はどこへいったらあるんだろうか?
 A:このページの管理人にメールしてもいいし,掲示板でちょっと呼びかけてみれば持ってる人は多いと思うからすぐ手に入ると思うよ。

*お断り::自主出版の「叛バリ」には、大衆団交の記録は収録されていません。
 三一版との内容の大きな違いはこの点だけです。
(叛バリ編集者ご当人からのご指摘です。)

「叛バリ」の在庫あります。(お問い合わせは,下記へ)

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 「反逆のバリケード」ご案内

  35年前、日大全共闘文理学部闘争委員会(通称・文闘委)
  によって日大闘争の記録が一冊の本にまとめられた。
  それが
「叛逆のバリケード」(略して「叛バリ」)である。
  当初は自主出版だったが、のちに三一書房が版元を引受け「増補版」
  も発行され、ともに空前のベストセラーを記録した。

   一昨年、文闘委で「叛バリ」の編集責任者だったK君の遺品のなか
  から、360冊の「叛バリ」(自主出版本)が発見された。

  はじめは遺族から託された遺品ということもあって、主に日大闘争に関
  った人々に配布されましたが、現在は、世に日大闘争を知らしめるとい
  う「叛バリ」を企画した本来の趣旨にもどって、日大闘争や全共闘運動
  に共感したり、関心を懐いたり、あるいは調査や研究等の対象にされて
  いる方々にも、ひろく門戸を開くことにしました。

   送料のみ負担していただけば代金は一切不要です。
   なお現在の残部数は
230冊。ご希望の方はご連絡のほどを…。

      (現在残部数は,200冊です・2003−10現在)
   
配布は終了しました。→残部数は0冊となりました。

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1968・9・30  午後1時、全共斗、経済前総決起集会、
     一方両国講堂では日大学生有志会の決起集会、
     午後3時より両国講堂で学生40000名が参加し初めての12時間
     にわたる大衆団交開かれる、翌日まで続行。
     理事者側は学生の9項目要求を全面的に認める。
     生産工学部へバリケード破り来襲。
     芸術学部にも武装した暴力学生が来襲、女子学生2名を針金でし
     ばり、寝具等を焼く

1968年10月、急展開  政府が怒って、古田が居直った。 

1968・10・1   午前3時、大衆団交終了後5,000名が神田三崎町へデモ。

               佐藤首相は日大の大衆団交を重視し
              「政治問題として取り上げるべきだ」
              と強調大学問題閣僚懇談会を設置

10・2  古田会頭=日大当局は緊急理事会を開き30日の大衆団交は数
      の威力で強要されたと、大衆団交を拒否

10.3   両国講堂で団交拒杏抗議全学総決起集会(1万名参加)。

      大衆団交での確約事項破棄に対して集会、デモ

10. 4  秋田全共斗議長以下8名に公安条例違反、
     公務執行妨害の疑いにより逮捕令状。

1968・10・4(金)
経済学部ティーチイン 10:20〜 (33番講堂)
 10・3路上集会において参加していた一般学生が,私服6名を捕まえたことに関して、政府側からの攻撃に対してどう対処するか。
 佐藤政府=政治委員会の内容は,現在の大学紛争に関し,露骨に干渉しようとしている。(社会問題にとどまらず,政治問題として扱う)
 敵権力はこの間の日大斗争を総括して,政治攻撃を仕掛けている。
 その間の理論面で現在我々は遅れをとっているのだ。
 たとえば、全学連の介入を許さないとか云々の事である。
 即ち,古田倒せ!から佐藤倒せ!へ、である。   (当時の議事録より)

10.5   緊急理事・学部長会議。

       経・法・理工の各学部長それぞれ教授会に辞意表明。
    運営権をめぐって結論出ず、7日の評議員会にもちこす。

10.6   全共斗,今後の方針を声明
        @9.30大衆団交は有効、当局は完全実行に移せ
        A全学大衆団交要求
        B学部別団交要求
        C現執行部は逮捕されても斗い抜く、等を声明。

10.7    評議員会、理事総退陣と今後の問題で結論出ず、全理事一致を
     原則として理事会に議事差し戻す。

10.9   理事会、多数決をもって理事総退陣を決定。

       経済学部前にて総決起集会。
     白山通り3,000名の武装デモ。

1968-10-11(金)
文団連(日大本部直属日大文化団体連合会)総会開催 法学部大講堂、
(傘下全研究会結集で,会場は満席となる)
 執行部リコール成立、解散。
 以後文団連斗争委員会(9-28発足)として即日活動を開始する。
 総会決議
  @文連執行部をリコール、執行部全員を解職する
  A新委員長を、市川君(雄弁会)とする
   新委員長を議長として審議続行、以下の決議をする
  B文連は,全共斗を支持し,以後行動をともにする
  C文連は解散,以後文連斗争委員会として、活動。
   市川君を斗争委員長とする
  D文連傘下の各研究会は,全共斗を支持するものである(文連斗メモより)

10.14   郡山工学部へ右翼のなぐりこみ。バリケードに放火し空気銃を撃
     ち込む。
     この襲撃により、全共斗学生多数負傷

10.21  「国際反戦デー」。
      関東軍が結成される。

 
 

1968・10・21  <日大全共斗外伝>
※日大全共斗は、政治闘争には、参加せず!
「10・21には全共斗としての機関動員は行わない。日大全共斗は、個別日大斗争を闘い抜く為の運動体である。政治闘争のためにあるのではない。したがって、各斗委としては、これに参加しない」
 前日、経済学部2階の教授会会議室で行われた全共斗全体会議での結論であった。
 これが10・21国際反戦デーに対する全共闘の全体的な方針だった。
 
 だが、しかし・・・その当日、各学部バリの中は空っぽになっていた。
 後日、聞き取りを行った結果、経済学部校舎内にいたのは、留守番の短大闘争委の女子学生を含む4人だけだった。 
 他の各学部も同じようなものだった。
 その日に限り、みんな用ありで外出したのである。
 もちろん、筆者も他所に用ありということで外出していた。
 その用件とは、付属高時代の友人達と連れ立って新宿68年10・21闘争に行くことだった。
 日大全共斗は、参加しない方針だったので、ヘルをかぶり、旗ざおをかついで出かけるわけには行かない。
 全体会議でその点については付帯決議=「個人参加については、何ら制限されるものではない」というものだった。


 10・21現場では・・・・あらゆる闘いの先頭に、日大生がいた
 また、万余の日大生が、各党派の隊列に紛れ込んでいた。
 もちろん日大全共斗のヘルメットは一個もいない。
 旗もない(=1本の例外を除いては・・・後にこの1本の旗が大問題となるのだが・・)
 
 私達もセクトの列に並んで、ヘルを借りて集会に参加した。白ヘルだった。
 線路の向こうのデパートの屋上にいくつもの傘状のものがあった。
 ほどなくそれが、集音マイクの傘であるのがわかった。
 敵は、既定の騒乱罪適用に備えている・・・・
 適用後の公判を睨んで、周到に準備をしていた。
 この騒動が、一定の臨界を越えたとき、(権力によってすでに予定されていた)騒乱罪が適用されるのだ。
 敵は、前日マスコミで、この情報を流していた。
 集会の人数は、予想を越えたものになった。
 三戸部が、本田が、旗で顔をかくして、激烈なアジテーションをしていた。

 
 


 防衛庁突入=丸太の花棒をかついだ日大生



10.25  歯学部、学部団交流会。

10.26  全共闘組織局長今章、逮捕。これに抗議し、神田署へデモ。
     学友14名逮捕さる。

10.31  古田9.30確約事項を破棄、「寄付行為が改正されてない」ので退
     陣しないとの居直りを表明。

1968年11月8日(金)、9日(土)、10日(日)
バリケード内の大学祭、三崎祭

1968年経済学部三崎祭パンフレットよりの写真

★上記写真について議論

 写真のヘルメットに記号が書いてあるのは何?
 A ああ、たとえば「3-8-7」なんてやつかい?
 Q そうそう、そういうやつ
 A方があるのさ。3年生斗争委員会の8中隊の7班という あれはね、意味があつてね。読み意味だよ。
 Q 何でそんな事、メットに書くの?
 A それはね、行動隊の人数が多すぎてさ、てい団を組むときバラバラにならないように斗争委員会ごとにスクラムを組むためだよ。
 Q そんなに人数がいたのかい?
 A ああ、すごかったよ、何しろ経済学部全学生数より、行動隊の人数のほうが多いとといわれたくらいだからね。
 Q エー?何だって学部学生数より、学部斗委の行動隊のほうが多いって?って言ったってそんじゃあ、計算が合わないじゃないか?
 A まあね、実際に数えたわけじゃあないからね。でも理論的にはありうるぜ。だってさ、経斗委には他の学部の学生がずいぶん入ってきてたからね。

 Q そうか、そんなに人数がいたのかい?
 A そうだよ、だってさ、経斗委習志野ならず者部隊って名のっていた奴らとかさ、法学部有志経斗委だとかさ、OBの組織してた救援会な
んかもどっちかっていうと経斗委だったはずだぜ。思い出した、豊山連協って言う付属高のOB会斗委も経斗委を名乗っていたよ。

 Q でも、そういうのって届出かなんかがあって執行部で掌握してたんじゃあないの?
 A うん、普通はそうなんだろうね。でも日大全共斗の不思議なところはね、全共斗だと名乗って経済学部のバリの中にウロウロしてるとこれが全共斗の経斗委ということに何故かなっちまうんだよな。不思議なことに誰も文句を言う奴がいないんだよ。

 Q えーっ?そしたらさー、たとえば応援団や空手部なんて右翼の奴らが全共斗だなんて名乗ってバリの中に泊まってたらどうすんのよ。
 A 共に行動して敵と戦えば仲間だろうな、実際に右翼思想の奴らもずいぶんいたんだよ。何しろ日大全共斗は左翼組織じゃなくて、一般学生といわれてた普通の学生が作った物だからね。

 Q そんないいかげんなものだったら、組織として成立しないんじゃあない?
 A それは俺もよくわからないんだけど、でも組織で硬く結びついてる必要があるんだろうか?組織なんて、運動をすすめるためのもんだろう?
日大斗争が無かったら、日大全共斗なんて組織は必要ないじゃん?
要は日大斗争を戦うことが最も重要なことジャンか?

 Q そんないいかげんなことで革命ができると思ってるのか!馬鹿野郎っ!
 A エーっ、そんな事言われたって俺たちは革命なんて大それた事は考えてなかったからなーーー。困ったなー。
 この議論を持ってこの二人の友情がどうなったか不明であります。

 結論、日大全共斗って組織じゃないみたいね。では何なんだろう。
 運動体かい?ところで運動体って何?

★上記の議論は,経斗委の討論会(テイーチイン)の中で実際にあった議論である。
 対話風に脚色してあるが、斗争と組織の関係についての当時の全共斗の学生の認識を端的にあらわした議論のひとつとして紹介したものである。

1968・11・8  早朝、芸術学部へ右翼関東軍(400名)が襲撃、6時間の攻防戦で
       200名負傷。
       右翼10名逮捕される
         スチールパイプ、角材、スチール制のタテ等を持ち、完全武装の「関
       東軍」日大、拓大、東海大の応援団・体育会、「皇道会」ヤクザなど
       の右翼暴力団約400名が江古田芸術学部を襲撃。

        


      午後、全学総決起集金。
       白山通り武装デモで制圧。
       このデモの中に日本愛国党の宣伝カー突入しデモ参加者を負傷
       させ、さらに愛国党員がオノをふりまわして学友数名を負傷させた
(写真)

 
当日の情報メモ(日大全共斗情報部・現物メモ)>

11.09  教員協、大学当局に抗議して本部前でハンスト

11. 10  全国父兄大会、両国講堂で開催。

     父兄会にまぎれこんでいた一部反動的後援会、校友会の策動を
     粉砕し、新議長を選出して、「古田退陣」等4項目を決議。

      両国講堂にて父兄大会(5000名参加)授業再開決議が否決され
     大学弾劾集会となる。
     理事退陣・告訴等を決定

11. 12  11. 8の右翼バリケード破壊の現場検証を口実に芸術学部へ機
     動隊導入。
     芸闘委46名は約3時間の交戦の末、全員逮捕。
      弾圧は新型P型ガス弾800発を連射するという過激さだった。
     これに対し全共闘は1,000名余の抗議集会後、再度芸術学部を
     奪還しバリケードを再構築。

11.12  芸術学部、右翼との乱闘事件で強制捜索。抵抗した学生全員
     (43名)逮捕。
     1000発の催涙弾が使用される。全共闘抗議集会ののち再占拠

11.13  右翼暴力団と国家権力の攻撃に対する抗議集会。
      2,000余名が結集し、神田地区と江古田地区を日大解放区とする。
      経闘委横浜君逮捕される。

11.14  当局の手先の学生大会が両国講堂で開催。
     それを阻止しようとした学友10余名が逮捕される。

    
当日前後の情報メモ(日大全共斗情報部・現物メモ)

11.17 全共闘副議長酒井君、長野県父兄大会より帰京途中逮捕される。

11.17  秋田議長と東大全共闘山本代表が記者会見し22日に日大東大
      が総決起集会を開くことを発表

11.19  全学総決起集会。国家権力、右翼暴力団、大学当局一体の弾圧
     をはねのけ日大闘争に勝利することを確認。
     「11.22日大=東大闘争勝利・全国学生総決起大会」が提起される。

      経短二部闘争委員長樺山君逮捕。

    *注(11・8〜11・19は、日大闘争年表作成委員会の年表より転載)

 

1968年11月22日(金)
 

東大日大斗争勝利全国学生総決起集会
 (東大安田講堂前)
 全都全国から先進的学生、労働者2万人結集する。
 日大斗争の破壊の思想,非妥協の質を東大闘争に注入し,
 全国学園斗争勝利の前進を確認する。
 国家権力機動隊は強固な弾圧体制をとり,集会破壊を成そうとする。(経済2斗委ビラより)

11.24  経済学部4年生に対する授業再開。塩原・千葉等で寺小屋式疎
     開授業。

      経済学部、9. 4に関するデッチあげ殺人・傷害容疑の5名を逮捕。

11.28  農獣医、鈴木君逮捕される。

11.29  法闘委員長酒井君別件再逮捕。

11.30  大衆団交。理事者出席せず、抗議集会に変更。

1968・12・1   農獣医の笠置君郡山工学部神田君逮捕される。

12.3   法学部高橋君逮捕。

12.4   経済学部短大、軽井沢にて授業再開。
     参加学生が授業ボイコットを決議して中止。

      芸闘委員長真竹君、法闘委柴田君逮捕される。

12.6   評議員会開かれる。51名出席中、反対3名で「寄付行為」可決

12.7   右翼と官憲が郡山工学部へバリケード破壊。工闘委は粉砕。

12.8   全学総決起集会。3,000余名結衆。当局の寄付行為弾劾及びに
     12.15日大闘争報告集会の提起。

12.10   古田、寄付行為の件で記者会見、全理事は12月6日付でやめる。
     しかし、新理事が選出されるまで職務は遂行すると、退陣引き延
     ばしをはかる。

12.11  右翼学生130名、清水谷公園にて集会。日比谷までデモ。

12.15 東大 安田講堂で日大闘争報告集会を開く4000名参加

12.16  各学部で疎開授業開始

1968・12・23   全学総決起集会。2,000余名結集。
     越年体制の強化と団結をかためた。
     集会後、中大へデモ。

12.24  各学部、「メリー・バリケード」のパーティ。

1968・12・30(月) 経斗委もちつき大会

文連斗(文化団体連合会斗委)カンパ活動
 於 御茶ノ水 約7,000円

1968・12・30(月)
経斗委テイーチイン(学内討論集会)
 68年総括
 初期の学園民主化斗争と階級斗争のギャップの問題と,各大学との連帯の不可欠性と, その現実的な欠如.
 9・30の総括からくる一月斗争の展望
 9・30が完全勝利できなかった原因は?→問題点
              ↓  新理事会に対する弾劾の戦い
              ↓  入試阻止闘争
 寄付行為の認可による新内閣(新古田体制)の出現
 教育斗争としての68年であった。
★教育が大学の中で,どのような機能を果たすべきか?
                    いかに機能すべきか・・・・・
 貴族的な東大、      |
 楽観的おおざっぱな日大 | の打開による斗争勝利
 ○一説に,寄付行為の認可が前には拒否され、この暮れになって文部省が認可をしたことの政治的な意図は,ここ一連の全国学園斗争が東洋大,慶大,駒大,上智と衰退の機運を見せていること。
→つまりは日本の学生運動が,70年を迎えて激烈に斗争を展開しようとしている中で,逆に個別の斗争そのものは衰退しているといった,一般的状況を見ての,政治的意図であると分析する。
 ○大学斗争は69年で労働者の運動と結びついていかなければならない。
それを必然ならしめる運動体系と,理論が必要である。 
(当時の議事録より)
        

 このような議論をもって,全共斗および経斗委の面々は,1969年に向かうのである。        
        

 
 
   
   
   
   
   
   

 

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