決起への道 | 1958年 | 1966年 | 1967年 | 1968−1 | 1968−2 | 1969年 | 1970年 | 1971年 | 現 在 |
日大斗争ドキュメント 1968年7月〜12月(後半) |
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全生命をかけ、断固バリケードを死守せよ!! 7,8月夏季闘争、日大全学友の大爆発を! (経済学部前の巨大立看板より)
バリ・スト体制の経済学部本館の遠景(法学部3号館より撮影) |
以下文中、赤色文字は、(注)で 茶文字は後入れ挿入文である。 お断り:1968・1969日大斗争の文中で↓ *事実経過の文言は,できるだけ「当時のビラ」や「議事録」よりそのまま転載している。 *ティーチイン・全共斗会議の内容は,現存する経・短学生会(経斗委)の「議事録」よりそのまま転載した。 そのため意味不明の個所があるが,ご容赦願いたい。 *その他、証言については,本人の証言をそのまま記載してある。 |
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膠着の68年7月 公文書封筒
1968−7−1(月) --以下は「現認報告1968年日大」(経・短学生会議事録)より転載--
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その田中良彦君も、今はもう故人となっています。 ★東大の安田講堂の本格的封鎖の支援要請が東大全共斗から来た時の事です。 それまではここ安田講堂のバりケ一ドとは!何と信じられない事に、机がただ積み上げてあっただけだったのです。 同じような事、慶応大学でもやった覚えがあります。 とにかく日大全共斗(経斗委)は他から要請があればどこへでもでかけていきました。
質問=日大全共斗の作ったバリケードってどんなものですか? これは68年6月の第一次バリケードです。バン線でしっかりと留められています。 1968−8パンフ「日大体制下での血みどろの三年間」発行
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1968年9月3日 なぜかエレベーターの点検が入った。写真 風雲、急を告げる時がきた 1968年9月4日(水) 経済学部,法学部に機動隊導入、バリケードの封鎖解除! 1968年9月5日(木)〜9月13日(金)まで連続斗争, 連日激しい武装デモと街頭斗争が繰り広げられました。 翌日別の新入り部隊がまた出撃します。またパクられます。 神保町・書泉前の激闘 1968−9月の一連の街頭斗争は 新調のヘルメットに新しい角材を持って続々と出撃していきます。 日大全共斗はこのとき,質量ともに飛躍的に増強されました。 このとき,天地のすべてが,私たち日大全共斗の味方でした。 後日談:
★人質を取って、学生の投石から逃れようとする、機動隊。 **に続く |
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★敵を知り己を知れば,百戦危うからず(孫子の兵法より) なつかしの指揮官車 |
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<9月斗争ドキュメント> 68年日大闘争における催涙弾問題 60年安保編はこちらを・・・・ 思い出の催涙弾 −その1
発煙筒タイプ− 日大闘争が始まった頃の催涙弾は、長さ20数センチの発煙筒タイプ。 思い出の催涙弾 −その2 新型P型ガス弾- 68年10−11月頃であったろうか、新型の微粉末炸裂タイプの催涙弾(正式名称はP型ガス弾と言うらしい)が同時に使われ出し、やがてこればかりになる。 思い出の催涙弾 −その3 顔面水平撃ち− 忘れもしない69年1月18日。 思い出の催涙弾 −その4 バケツ式ガス弾戦− 全学部の日大全共闘や、明大・中央大等々の全共闘・セクト諸君が中央大学中庭で東大闘争支援集会を終えて街頭に出た途端、町の中は機動隊の群れ。集会から出てきた学生を包囲していた。 |
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<噂の真相> 全共斗,習志野ならず者部隊(別名パチンコ部隊) その事件は、翌日の新聞報道によって、発覚した。
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**(本文の続き)
1968-9-12(木)
経済・法学部校舎奪還! 封鎖解除以降も全共斗は連日の激しい戦いによって,毎日経法2学部を再占拠していました。 仮処分執行 立ち入り禁止 の看板が校舎2階のベランダに掲げられていました。 1968‐9‐19(木) 経済総決起集会 スト貫徹100日総決起集会 経済学部ティーチイン(33番) 6:50〜 医学部スト突入! 1968-9-21(土)
(当面の対策) 1968‐9‐22(日) (*注)9・30大衆団交を直後に控えて,活動家各自は体がいくつあっ 「討論だって?いいじゃないか,やろう」 忙中閑あり,というところか・・・ 1968‐9‐23(月)
旨、回答あり 1968‐9‐24(火) 1968‐9‐25(水) 記述なし 1968‐9‐27(金)
*以上,経・短学生会記録帖5(当時の議事録)より転載 日大の全共斗の学生は、自分たちが大学当局によって、追い詰められているのを知っていた。 日大全共斗のおバカな斗いは続く。 |
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1968年日大斗争-9・30大衆団交 史上初の大衆団交 |
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それは,前日(9・29)の夕刻、18:30頃の事である。 1968‐9‐29(日)
古田→全共斗
PM6:30頃、通知書が届く。
急遽、全共斗(活動者)会議が召集された。 1968・9・29 <9・30行動予定> 1968年9月30日(月)
両国に結集せよ。 1968-9・30大衆団交当日 (*注)全共=誤植ではない。右翼体連側は,「全共斗」のことを「全共=ゼンキョー」と呼び、けして「全共闘」などとフルネームでは呼ばなかった。 ●9・30大衆団交の詳しい内容は,文斗委編「叛逆のバリケード」参照」 古田冷や汗で弁明。他の当局者はあっちゃ見たりこっちゃ Q:普通言われる労組などがよくやる「団体交渉」と,日大全共斗がやった「大衆団交」とはどう違うの? *お断り::自主出版の「叛バリ」には、大衆団交の記録は収録されていません。 「叛バリ」の在庫あります。(お問い合わせは,下記へ) ------------------------------------------------------------------------- 「反逆のバリケード」ご案内 35年前、日大全共闘文理学部闘争委員会(通称・文闘委) 一昨年、文闘委で「叛バリ」の編集責任者だったK君の遺品のなか はじめは遺族から託された遺品ということもあって、主に日大闘争に関 送料のみ負担していただけば代金は一切不要です。 (現在残部数は, -------------------------------------------------------------------------- |
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1968・9・30
午後1時、全共斗、経済前総決起集会、 1968年10月、急展開 政府が怒って、古田が居直った。 1968・10・1 午前3時、大衆団交終了後5,000名が神田三崎町へデモ。
佐藤首相は日大の大衆団交を重視し 10・2
古田会頭=日大当局は緊急理事会を開き30日の大衆団交は数 10.3 両国講堂で団交拒杏抗議全学総決起集会(1万名参加)。 大衆団交での確約事項破棄に対して集会、デモ 10. 4
秋田全共斗議長以下8名に公安条例違反、 1968・10・4(金) 10.5 緊急理事・学部長会議。
経・法・理工の各学部長それぞれ教授会に辞意表明。 10.6
全共斗,今後の方針を声明 10.7
評議員会、理事総退陣と今後の問題で結論出ず、全理事一致を 10.9 理事会、多数決をもって理事総退陣を決定。
経済学部前にて総決起集会。 1968-10-11(金) 10.14
郡山工学部へ右翼のなぐりこみ。バリケードに放火し空気銃を撃 10.21
「国際反戦デー」。 |
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1968・10・21 <日大全共斗外伝>
10.26
全共闘組織局長今章、逮捕。これに抗議し、神田署へデモ。 10.31
古田9.30確約事項を破棄、「寄付行為が改正されてない」ので退 1968年11月8日(金)、9日(土)、10日(日) ★上記写真について議論 写真のヘルメットに記号が書いてあるのは何? Q そうか、そんなに人数がいたのかい? Q でも、そういうのって届出かなんかがあって執行部で掌握してたんじゃあないの? Q えーっ?そしたらさー、たとえば応援団や空手部なんて右翼の奴らが全共斗だなんて名乗ってバリの中に泊まってたらどうすんのよ。 Q そんないいかげんなものだったら、組織として成立しないんじゃあない? Q そんないいかげんなことで革命ができると思ってるのか!馬鹿野郎っ! 結論、日大全共斗って組織じゃないみたいね。では何なんだろう。 ★上記の議論は,経斗委の討論会(テイーチイン)の中で実際にあった議論である。 1968・11・8
早朝、芸術学部へ右翼関東軍(400名)が襲撃、6時間の攻防戦で 11. 10 全国父兄大会、両国講堂で開催。 父兄会にまぎれこんでいた一部反動的後援会、校友会の策動を
両国講堂にて父兄大会(5000名参加)授業再開決議が否決され 11. 12 11. 8の右翼バリケード破壊の現場検証を口実に芸術学部へ機 11.12
芸術学部、右翼との乱闘事件で強制捜索。抵抗した学生全員 11.13
右翼暴力団と国家権力の攻撃に対する抗議集会。 11.14
当局の手先の学生大会が両国講堂で開催。 11.17 全共闘副議長酒井君、長野県父兄大会より帰京途中逮捕される。 11.17
秋田議長と東大全共闘山本代表が記者会見し22日に日大東大 11.19
全学総決起集会。国家権力、右翼暴力団、大学当局一体の弾圧 経短二部闘争委員長樺山君逮捕。 *注(11・8〜11・19は、日大闘争年表作成委員会の年表より転載)
1968年11月22日(金) 11.24
経済学部4年生に対する授業再開。塩原・千葉等で寺小屋式疎 経済学部、9. 4に関するデッチあげ殺人・傷害容疑の5名を逮捕。 11.28 農獣医、鈴木君逮捕される。 11.29 法闘委員長酒井君別件再逮捕。 11.30 大衆団交。理事者出席せず、抗議集会に変更。 1968・12・1 農獣医の笠置君郡山工学部神田君逮捕される。 12.3 法学部高橋君逮捕。 12.4
経済学部短大、軽井沢にて授業再開。 芸闘委員長真竹君、法闘委柴田君逮捕される。 12.6 評議員会開かれる。51名出席中、反対3名で「寄付行為」可決 12.7 右翼と官憲が郡山工学部へバリケード破壊。工闘委は粉砕。 12.8 全学総決起集会。3,000余名結衆。当局の寄付行為弾劾及びに 12.10
古田、寄付行為の件で記者会見、全理事は12月6日付でやめる。 12.11 右翼学生130名、清水谷公園にて集会。日比谷までデモ。 12.15 東大 安田講堂で日大闘争報告集会を開く4000名参加 12.16 各学部で疎開授業開始 1968・12・23
全学総決起集会。2,000余名結集。 12.24 各学部、「メリー・バリケード」のパーティ。 1968・12・30(月) 経斗委もちつき大会 文連斗(文化団体連合会斗委)カンパ活動
1968・12・30(月) このような議論をもって,全共斗および経斗委の面々は,1969年に向かうのである。 |
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